前方後円墳が示す「卑弥呼と並び立つ男王」の存在 背景には吉備と北九州の「主導権争い」があった

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6基の前方後円墳はいずれもオオヤマト古墳群に属するが、初瀬川を挟んでやや離れた位置に2つに分かれており、王都があった纒向遺跡に近い磯城(しき)・山辺(やまのべ)地域の4基(箸墓・西殿塚・行燈山/あんどんやま・渋谷向山/しぶたにむかいやま)と、伊勢・東海へとつながる大和街道の出入り口にあたる磐余(いわれ)地域の2基(桜井茶臼山/さくらいちゃうすやま・メスリ山)がある。

一方で6基の前方後円墳の墳形を分析すると、箸墓古墳をベースとする主系列(箸墓・西殿塚・行燈山)と副系列(桜井茶臼山・メスリ山・渋谷向山)に分かれていることがわかった。

ここから岸本氏は、卑弥呼・台与の系列の神聖王とともに、軍事・政治面を担当する執政王の2人の王が並立して存在していたとしている。

神聖王・卑弥呼と執政王だった男弟

こうした2人による二重統治体制が卑弥呼政権にもあったことが、『魏志』倭人伝に記されている。卑弥呼についての説明として、鬼道に通じ、年をとっても夫を持たなかったが、弟がおり国を治めるのを補佐した(「有男弟佐治国」)とある。つまり神聖王である卑弥呼とともに、執政を担当する男弟(執政王)がいたことが示唆されている。

また卑弥呼が共立する前には、男王がいたことも記されている。

築造年代から、箸墓古墳を卑弥呼の墓とした場合、同系列の西殿塚古墳は台与の墓ということになる。さらに4世紀初頭に造営されたと考えられる行燈山古墳は10代崇神天皇の陵墓に比定されている。

崇神天皇は、その諡号の通り、多くの神祀りを行った天皇であり、神聖王としての側面が強い。

桜井茶臼山古墳の副葬品として武具などが出土しており、執政王としての性格がうかがえる。造営年代は台与の墓と考えられる西殿塚古墳より少し前の時期だ。ここから、卑弥呼とともに政権運営を行った男弟(執政王)、あるいは卑弥呼の死後に一時的に立てられた男王だったとも考えられる。

メスリ山古墳は行燈山古墳の少し前の造営で、崇神天皇の時代に地方を征討した四道(しどう)将軍が被葬者の可能性がある。また渋谷向山古墳は12代景行天皇の陵墓に比定されている。景行天皇も九州に遠征した天皇で、息子のヤマトタケルは全国を征討した人物だ。

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