和一は綱吉から、関東を差配する関東惣禄検校職を与えられ、本所一ツ目の屋敷は「惣禄屋敷」と呼ばれた。これまで盲人官位の取得のためには京都に赴く必要があったが、これ以後、関八州(武蔵、相模、上野、下野、上総、下総、安房、常陸)の視覚障がい者は、惣禄屋敷で盲人官位を得られるようになったという。
後世に影響を与えた「偉人検校」の活躍とは?
和一が考案した「管鍼法」は、管のなかに鍼を通して施術を行うというもの。施術者は、管の上部に出ている鍼頭を示指で叩いて、患者の身体に刺入していく。刺入時の痛みを軽減するという日本独自の方法であり、現在においても、日本鍼灸の特徴の一つとなっている。杉山和一は日本鍼灸のルーツを形作った人物といってよいだろう。
また、和一の業績で特筆すべき点は、天和2(1682)年に72歳にして、私塾を改めるかたちで、鍼治学問所を開設したことである。視覚障がい者を対象とする組織的な職業教育機関が作られたのは、世界でも類がないことだった。
鍼治学問所は元禄6(1693)年に「江島弁財天社」内に移設。優秀な鍼師を輩出し続けたことで、明治期に盲学校が設立されると、その職業教育に鍼・按摩が取り入れられることとなった。
そのほかにも、和一と同世代で箏曲(そうきょく:箏〔こと〕をひいて演奏する音楽)に革命を起こした八橋検校のような芸術面で功績を残した検校もいれば、ちょうど鳥山検校が大金で「五代目・瀬川」を身請けした頃に、大文献集「群書類従」( ぐんしょるいじゅう )の出版を決意した塙保己一 (はなわ ほきいち) のように、国学者として偉大な足跡を残した検校もいる。
今回の「べらぼう」では、やりたい放題をして没落した豪快な鳥山検校にスポットライトがあたることになったが、「検校」自体にも関心を持った人もいるはず。杉山検校・八橋検校・塙保己一といった「偉人検校」たちの業績も、合わせて知ってもらう機会になればと思う。
【参考文献】
青木歳幸『江戸時代の医学: 名医たちの三〇〇年』(吉川弘文館)
長尾榮一『史実としての杉山和一』(桜雲会点字出版部)
長尾榮一、大浦慈観、松本俊吾、和久田哲司「特集 杉山和一の臨床テクニック」(「医道の日本」2011年6月号)
太田善麿『塙保己一』(吉川弘文館)
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