和一の生まれは、慶長15(1610)年。生地は諸説あるが、6歳頃まで伊勢の安濃津(現在の三重県津市)で過ごしたとされる。
幼少期に伝染病を患い失明。17歳で江戸に出ると、検校で鍼医の山瀬琢一に弟子入りするも、記憶力に乏しく、技術も劣っていたために22歳で破門される。
このままでは自活することができなくなってしまう――。決死の覚悟で、江島弁天の岩屋にこもり断食修行を行った和一だったが、満願の日に石につまずいて転倒する。その際に、足に刺さった松葉が筒状の椎の葉に包まれていたことから、こうひらめいたという。
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「苦手な鍼術も、このように管を使えばうまくいくのではないか……」
ひょんなことから「管鍼法」という鍼術を考案することになった和一。そこからうまく人生が回り出した。
京都で入江豊明に弟子入りして修行に励んだのち、江戸の地で開業。その腕の良さからたちまち評判となり、「鍼の名人」として名を馳せている。
その名声を聞いた時の将軍・徳川綱吉に召し出されて、和一は将軍にたびたび鍼施術を行うようになった。貞享2(1685)年には、20人扶持の「扶持検校」として召し抱えられて、道三河岸に屋敷を与えられている。
関東惣禄検校職まで上り詰めた
不器用で破門された過去を思えば、想像もしなかった出世を果たした和一。「管鍼法」考案のきっかけをくれた感謝を持って、年老いても江ノ島詣を毎月欠かさなかった。
その身を案じた綱吉は、江ノ島まで行かなくてもよいようにと、元禄6(1693)年、本所一ツ目(東京都墨田区)にて2700坪(約8910㎡)の土地を和一に与えて、弁財天を分社して祀らせている。労をねぎらっただけではなく、綱吉がなるべく和一を手元に置きたがったという事情もあったようだ。
また、綱吉が「本所一ツ目」という土地を選んだ理由としては、こんな有名な逸話もある。病を治してくれたお礼にと、綱吉が「何がほしいか」と尋ねると、和一が「目がほしいです」という返答をしたため、「一ツ目」の地名を持つ土地が与えられたという。真偽はともかく、綱吉が和一の鍼施術を高く評価していたからこそ、生まれたエピソードであることに違いない。
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