「鳥山検校」「杉山検校」2人の視覚障がい者の生涯 豪快に全て失う鳥山検校と技術残した杉山検校

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「当道座」が発足されたのは室町時代のこと。足利尊氏の従弟で琵琶法師の明石覚一(あかし・かくいち)が室町幕府の庇護のもと、自分の屋敷で当道座を設立したのが、始まりとされている。

一方で、女性の視覚障がい者は、三味線を持って全国を流す「瞽女(ごぜ)」の組織に属した。

当道座は江戸幕府のもとでも公認され、検校、別当、勾当、座頭の4つの位階に、細かくは73の段階に分けられていた。職分に励んでいれば、申請によって盲官位を認められることになっていたが、検校まで上り詰めるには年月がかかる。そのため、金銀によって早期に官位を取得することも認められていた。

最高位にあたる検校は大きな権限を持ち、社会的な地位も高かった。

しかし、鳥山検校が莫大な財力を誇ったのは、単に検校だったからだけではない。金貸し業を行っていたからである。それも高利貸しで、かなり強引な取り立てを行っていたという。

高利貸しで財を成して吉原で豪遊する検校も

もともと当道座は、語り物音楽である「平曲」を奏した琵琶法師たちが形成し始めたものだ。しかし、江戸時代にもなると平曲は廃れていき、三味線などの芸能や鍼灸・按摩なども、視覚障がい者の独占事業として保護されるようになった。

さらに「官金」(かんきん)と呼ばれる金融業も認められたため、鳥山検校のように、高利貸しで財を築いて、吉原で豪遊する者も現れるようになった。

視覚障がい者に高利貸し業まで認められたのは弱者救済策の一環だったとされているが、「べらぼう」の時代設定となる江戸中期にもなると、制度の弊害も生じていたということだろう。

幕府も問題視するようになり、鳥山検校は五代目・瀬川を身請けしてから3年後の安永7(1778)年に、悪質な高利貸しとして処罰を受ける。全財産を没収されて、江戸から追放されることになった。

だが、そんなふうに金融業で財を築いた検校ばかりではない。医術や学問、芸術の発展に大きく寄与した検校が数多くおり、なかには「偉人」と呼ぶのにふさわしい検校もいる。

そのうちの一人が、優れた鍼施術によって、5代将軍・徳川綱吉も治療した杉山和一(すぎやま・わいち)である。

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