「一休さん」遺した手紙に弟子達が笑った深い理由 人生困ったときに役に立つ「ひと休み」の思考

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一休さんが他の禅僧と大きく違うのは、後小松天皇の落胤(らくいん)=私生児、だと伝えられていることです。天皇という強力な後ろ盾があり、自らが大きな権威を持っていた。周囲はいつも一休さんを特別扱いしたことでしょう。

その特別扱いを誰より嫌ったのが、当の一休さんです。

弟子を爆笑させた手紙

こんな逸話が残っています。

応仁の乱により、臨済宗大徳寺派の大本山である大徳寺が灰燼(かいじん)に帰した後、一休さんは皆に懇願されて大徳寺の住職になりました。すると堺の商人たちに協力を仰ぎ、見事に大徳寺を復興させるのですが、復興を見届けた一休さんは「はい、やーめた」とばかりにすぐに住職を辞してしまうのです。

当時、一休さんは81歳。晩年になっても権威に縛られることを嫌い、自由な生き方を追求する一休さんの姿勢は、現代でも共感を呼ぶところでしょう。

一休さんは、庶民と共に悩み苦しんだ反権力の人。一休さん独特の人を食ったようなユーモアにもどこか温かみが感じられるのは、そのせいかもしれません。

例えば、お正月にどくろを杖に乗せて「ご用心、ご用心」と呼びかけて歩いたり、

門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(めでたい門松だが、新しい年がくれば1つ死が近づくから、門松は死への旅の一里塚のようなものだと思えば、めでたくはない)という歌を詠んだり。

おそらくは「だから、今を懸命に生きるより仕方がない」と伝えたかったのでしょうが、その伝え方が型破りです。

とにかくお坊さん=清廉潔白なイメージとは程遠い一休さんは、逸話に事欠きません。

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