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具体的にそれがどのようなものか見ていきたい。
まず、『もの食う人びと』を例に、味覚がどのように描かれているかを紹介しよう。次のシーンは、著者の辺見庸さんがバングラデシュの首都ダッカの駅周辺を彷徨い、粗末な屋台で提供される食事を口にする描写である。
テント横の空き地を起点に、海草のようなものが、線路沿いに蜿蜒(えんえん)とへばりついている。小枝の柱にボロをかけただけの、スラムの小屋の群れだ。カレーの香りはそこから漂っていた。
(中略)
遠吠えで私も空腹を感じた。駅前広場の屋台に入る。直径七十センチほどのブリキの大皿に山盛りになったビラニ(焼き飯)とバット(白いご飯)に食欲をそそられた。いずれの大皿にも骨つきの鶏肉、マトンがたくさん載っている。
(中略)
ここでの習慣に従い、右手の指だけ使って食べてみよう。慣れると、舌だけでなく指もまた味を感じるというではないか。
そうなりたいものだと、小皿のご飯におずおずと指を当てると、おや、ひんやりと冷たい。
安いのだから文句は言えない。親指、人さし指、中指、それに薬指まで動員しても、下手なものだからボロボロとみっともなくご飯粒をこぼしてしまう。
それでもなんとかご飯をほおばった。希少動物の食事でも観察するように、店の娘と野次馬が私の指と口の動きに目を凝らしている。
インディカ米にしては腰がない。チリリと舌先が酸っぱい。水っぽい。それでも嚙むほどに甘くなってきた。
お米文化はやっぱりいい、とうなずきつつ、二口、三口。次に骨つき肉を口に運ぼうとした。すると突然「ストップ!」という叫び。
「それは、食べ残し、残飯なんだよ」
「複数の感覚」を使い分ける表現術
いかがだろう。辺見さんの味覚を中心にした描写によって、読者の口にはダッカのスラムで食される残飯の味が濃厚に広がるのではないだろうか。
腐敗しかけた残飯の酸味、水っぽさ、糖質のほのかな甘さ……。
文章を通して舌先にこれらを感じるからこそ、読者は訪れたことがなくても、喧騒のダッカの屋台に座り、残飯を手づかみで食べているような身体感覚になるのだ。
これらを踏まえて、「複数の感覚」を使い分ける表現術は『本を書く技術』を参照してほしい。