広島出身の岸田文雄首相が、「核兵器のない世界を目指す」と訴えた最初の所信表明演説でも取り上げたノート。10年以上にわたって「国民の切実な声」を書き留めたものがすでに30冊ほどになるというが、長崎出身の記者はふと気になった。被爆者の声、核兵器廃絶の声はどれほど書き留められているか、と。
1945年8月15日。当時11歳で長崎の郡部に住んでいた記者の父は、「どんな内容だったか、ちっともわからなかった」という玉音放送を学校で聞いて帰宅した後、来客の姿を見て息をのんだという。服も靴も破れひどく汚れており、防空頭巾には頭から流れる血がべっとりと付いている。8月9日に被爆し、長崎市から約80キロメートルを歩いて逃げてきた親戚の母子だった。
何があったのか聞いても、茫然としたまま何も言わない。あるいは言えなかったのか。止血など傷の手当てしかできなかったというが、後に「ピカドン(原子爆弾)」が落とされたことが伝わってくる。母子は3、4カ月後に長崎市に戻っていったが、結局、被爆直後の話を聞いたことがなかったと父は悔やんでいた。
一方で、戦争当時軍隊にいた母方の伯父は8月6日から間を置かず、広島市に派遣され被爆地の処理に当たった。2週間ほどして帰ってきたが、夜眠れないほど憔悴(しょうすい)していた。「寝入ったかと思ったら、ウンウンうなされている声ばかり聞こえる」。当時10歳だった母にとって、「原爆」といえば言葉ではなく、兄のうなされている姿だった。伯父も原爆に関することは口にしなかったという。
唯一の被爆国だからこそ
記者が子供の頃には原爆投下から30~40年ほど経っており、実際の被爆者から話を聞いたことは少ない。とはいえ、やけどによるひどいケロイドが長袖でも見えた人、放射線障害で大量の薬を服用していた人に会ったことがある。近所で「何をしているのかわからない」といわれる人がいたが、後に「原爆ぶらぶら病」と呼ばれる、体力や抵抗力が弱く、つねに疲労感に悩まされて身体が動かない人だったことも知る。
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