わが国の政策課題は山積しているが、働き方の改革がその中核にあることを疑う人はいない。わが国の労働慣行はグローバルに見れば極めて特異なものだ。
わが国では、法文上はともかくとして、判例や慣行が積み重なって、事実上解雇ができない。その根底には、労働者の生活を守るべきだという固定的な観念がある。
しかし、よく考えてみると、その前提には「企業は潰れるはずがないのでどのような状況でも給与は払えるはずだ」という自由な市場経済の下ではおよそありえない古色蒼然とした観念が横たわっていることに気づく。中小・零細企業では、そんな悠長なことは言っていられない。潰れるかどうかの瀬戸際に立たされれば、人員整理を行うしか方法はないのだ。
わが国でも、断固として解雇の自由を認めるべきだ。だが、このようなことを述べれば、労働者に冷たい資本の論理だ、市場万能の新自由主義者の戯言だ、といった罵詈雑言(ばりぞうごん)が浴びせられよう。
本当にそうか。企業が余剰人員を抱えれば、窓際族が大量に生まれることになる。人間にとって仕事がないことほどつらいことはない。人間誰しもベンチを温めるよりは、たとえ二軍であっても試合に出たいのだ。解雇を自由に行えるようになれば、試合に出てリベンジするチャンスが増す。
飼い殺しにするのは、社会全体にとっても大きな損失である。大企業でベンチを温めるより中小企業で試合に出るほうが、はるかに社会全体の活性化に資するだろう。
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