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過日、必要があって、立花隆『日本共産党の研究』を読みなおしていたら、こんな一節に出くわした。
「民主主義の真の守り手としていちばん期待できるのは、健全なジャーナリズム、在野精神に満ちたジャーナリズムである。……日本の巨大マスコミは、在野精神が希薄とはいわないまでも弱い。戦前は一斉に大政翼賛会型の新聞になってしまった……」
四十年も前の文章ながら、今にもまったく通用する至言、あらためて唸(うな)った。要するに、日本のジャーナリズムは「全体主義」的な体質をもち、民主主義を守るに足らず、何十年もそれが変わっていない、というわけである。
そんな体質を成り立たせているのは、日本人自身の全体主義的な性向にちがいない。しかしそうであるなら、民主主義の立場と観点から矯めるのが、本来のジャーナリズムの役割である。
迎合・阿世のマスコミ
ところが日本のマスコミ・ジャーナリズムは、わずかな例外を除いて、基本的に迎合・阿世である。かつて小池百合子都知事を持ち上げ、やがてバッシングに転じた報道が、その最たるものであろうか。立花隆も特筆した田中角栄に対する「ちょうちん記事」と金権批判を髣髴(ほうふつ)とさせる経過だった。
誰からみても説得力のある根拠と論理があれば、時勢に親和的でもかまわない。体制に反対してもいいだろう。それすら満足に示さないまま、時流に右顧左眄(うこさべん)して、右往左往ばかり、そこに異論・反対の主張をさしはさむ余地は、ほとんど見えない。
あらゆる言説が公表できてこそ、民主主義であり言論の自由である。そこで反対意見を封殺したり、社会から葬ったりすることがあってはならない。「あなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」との原理は、ヴォルテールの言だという。
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