有料会員登録 東洋経済オンラインとは
ライフ #生涯現役の人生学

日本史の背後に、先例を破る草莽のパワー 公家も武士も時代遅れの慣習に絡め取られた

3分で読める 有料会員限定

応仁の乱で西軍の将になった山名宗全は、御所の公家たちとよく議論をした。締めくくりに必ずこう言っている。「あなた方は何かといえばすぐ先例とか旧慣とか言われる。今はその先例という言葉を“時”という言葉に改められたらいかがか」。

宗全の言う時というのは“時の流れ”であり、“現実の事象”のことだ。公家たちの守る先例や慣習は時代遅れであり、現実には対応できない。応仁の乱は「次の将軍を誰にするか」という、足利将軍家の相続争いから始まったが、この争いが地方に波及して大乱に発展した。宗全と対立する東軍の将は管領(かんれい)(幕府の宰相)の細川勝元だ。勝元は妻が宗全の娘だから宗全の婿になる。宗全よりはるかに若い。にもかかわらず勝元は公家と同じように先例・旧慣を大事にする。乱でも大義名分を守り、“花の御所”といわれた室町殿に陣を置いて、現将軍と天皇・上皇まで軟禁した。つまり自軍を官軍と位置づけた。宗全軍を賊軍と呼んだ。

宗全も負けてはおらず、一度は将軍の後継者に指名された現将軍の弟を擁立した。泥仕合だ。この争いは10年余も続く。結果的には宗全も勝元も死んで、京都での争いは自然消滅する。が、地方での争いはいよいよ熾烈になり、日本全体に広がっていく。これが戦国時代だ。

宗全が告げた“時”とは何だったのだろうか。地方における“下克上”の頻発だった。特に年貢のほかに戦費を追徴される農民や、労役に動員される住民などは、負担の限界に達していた。ついにキレて一揆を起こす者が次々と現れた。

当時の地方行政は守護・守護代などによって営まれていた。守護は中央(幕府)が任命し、守護代は守護が現地の人の中から任命する。守護によっては現地に行かずに京都に住む者も多い。乱のときは守護は一斉に京都に行ってしまったから、現地は完全に守護代の管理となる。

こちらの記事もおすすめ

あなたにおすすめ

ライフ

人気記事 HOT

※過去1ヶ月以内に配信した記事の閲覧数