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キャリア・教育 #松下幸之助

中内ダイエーとの確執は幸之助没後まで続く 気骨ある大阪商人が大挙したあの時代

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1976年2月、雑誌『財界』の経営者賞祝賀会で談笑する幸之助(左)と利一(右)(写真提供:江崎グリコ)

「東京に本社機能を移す企業が増えて、大阪の花街もあかんようになった」──。幸之助が足しげく通った大阪の料亭・大和屋の4代目女将(おかみ)、阪口純久(きく)は往年のにぎわいを思い浮かべそう語る。

「幸之助さんは戦後、『3日会』いうて、関西電力の芦原(義重元社長)さん、大阪商工会議所の小田原(大造元会頭)さんら5人で月1回集まってはりました。いつも少し早めにお越しになり、『女将さん呼んでんか』とお声をかけてくださいました」

酒は弱い幸之助だったが、得意先の接待や大阪財界の集まりに芸者を抱える大和屋を好んで使った。ほかにも「文なし会」と称する一文無しから事業を始めた経営者の会合を、ここで開くことがあったという。

会のメンバーは幸之助、江崎グリコ創業者の江崎利一、サントリー創業者の鳥井信治郎など。業種が異なる気安さもあって大いに打ち解け、「商売のことについてそれこそ恥も外聞もなく、実情をさらけ出して語り合った」(『縁、この不思議なるもの』)。中でも、会の発起人である幸之助と江崎利一は50年以上親交のあった親友同士として知られる。

出会いは1933年ごろ、朝日新聞社の招待旅行で熱海に行ったときのこと。同室になった二人は話をするうちに事業に対する考え方に共感を覚え、12歳の年の差を超え意気投合。その縁で文なし会を立ち上げた。「祖父も幸之助さんも小学校までしか行っていない。同窓生がいないから、利害関係なく話せる数少ない存在だったのでは」と利一の孫で江崎グリコ社長の江崎勝久は話す。

両者の付き合いは公私にわたり、江崎グリコが53年に上場すると幸之助は社外取締役に就任。利一が跡継ぎの長男・誠一を39歳の若さで亡くし、悲嘆に暮れ事業を縮小しようとしたとき、幸之助は「グリコはもうあんた一人のものやない。日本のグリコや」と励ました。勝久の大学卒業に当たっては、「はじめから江崎グリコに入れると甘やかされるから、一人前になるまでうちで鍛えてやる」(江崎利一『商道ひとすじの記』)と幸之助が提案。勝久は64年から2年間、松下電器産業に勤めた。

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