過去何度も繰り返されてきた論点の1つに、経済的自立を重視する立場、それに対して経済的なものでは測れない価値を強調する立場の対立軸がある。結局、この対立は家事労働が無償であることに起因している。解決策として、専業主婦にその働きを評価して現金支給をする主婦年金というものが提起されたこともあったが、財源の確保は現実的ではなく、この論点は決着のつかない平行線をたどっている。
ここに、最近加わっているのが自己選択の議論だ。妙木忍氏も上記書籍で1990年代後半から2000年代前半の第5次主婦論争では「自己決定・自己責任論」が論点の1つになったと指摘する。つまり、「積極的に自分で選んで楽しんで専業主婦をしている人はいいが、自分で選んだくせに、大変だとか評価されないとか不満を言っている専業主婦は文句を言うくらいなら、外で働けばいい」という主張をする論者が現れたのだ。
しかし、これこそが上記にも書いた①「好きで選んだわけじゃない」タイプの反発がでてくる背景でもある。つまり、好きで選んだとは限らないのに、専業主婦は大変だと言うと「自分で選んだんでしょ」と言われてしまう、あるいは専業主婦を養える世帯が減っている中で選べること自体に対して「専業主婦になれるなんていいですね」と嫌味を言われてしまう――。
しかし、人生の選択をする場面で、それを選ばざるをえない状況があったり、数少ない選択肢の中で次善の策として選んでいたり、選ぶように方向づけられてしまうような社会規範があったりしないだろうか。
例えば専業主婦にならない限り十全な育児ができないように見える社会環境、育休が取れない立場や配偶者の転勤が頻繁で就業と家族で生活することがトレードオフになってしまう企業の仕組み――などによって、そう方向づけられる場合もあるのではないか。
そうした制度や枠組みを疑うことなく、自己責任論に帰してしまってはたしていいのだろうか。なにか課題があるにもかかわらず当事者たちが「自分で選んだんだから」と自己暗示をかけることで、本当は改善されたほうがいい既存の課題含みのシステムは放置され、ときに強化される可能性もある。
比べる対象としての専業、共働き
こうした家事の価値をめぐる論争と自己責任論に加え、かつてないほど、専業主婦と共働きは、お互いがお互いを意識する存在になりつつあることも主婦論の炎上に油を注いでいる可能性がある。
マートンという社会学者が“準拠集団”という概念を使って“相対的不満(相対的剥奪感)”という理論を展開している。人は自分の置かれている絶対的な環境よりも、誰かと比べて「この人たちより不利な境遇にあるが、あの人たちよりは恵まれている……」というように「相対的」な不満を抱える――というものだ。そのときに、比べたり規範に従ったりする対象のことを “準拠集団”というのだが、人が準拠させる集団は、所属している集団に限らない。
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