スーパー編集者が『宇宙兄弟』の次に描く夢 新世代リーダー 佐渡島庸平 作家エージェント

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

佐渡島がどっぷり文学に浸かった原体験。それは、南アフリカで過ごした中学時代にある。商社に勤めていた父の仕事の関係で、中1から中3の夏までの2年半を南アフリカの日本人学校で過ごした。

「当時はネットも何もないので、日本がすごく恋しくなるんですよ。日本に手紙を送っても届くのに2週間もかかる。飛行機代が50万円くらいしたので、あまり日本に戻ることもできませんでした」

当時の南アフリカは、アパルトヘイトの廃止をめぐる体制移行期の真っただ中。ネルソン・マンデラが黒人初の大統領となった1994年には、治安がさらに悪化した。学校への通学は車。町を出歩くことはできず、自宅の周りにも、防犯のために有刺鉄線が張られていた。 

図書館の本を片っ端から読み漁る

そんな環境でも、佐渡島は中学生活を存分に楽しんだ。現地の日本人学校は、小学校から中学校まで総勢70人程度という小所帯。授業や部活や遊びの際は、全生徒が、サッカー、バスケ、バレー、水泳などに駆り出された。スポーツのほかに、佐渡島が熱中したのが、読書だ。

「校舎の横の図書館に、日本人が置いて行った本がたくさんあったんです。日本語の本なら、文学全集から、赤川次郎、西村京太郎、火野正平まで何でも読んでいましたね。小学生の頃から読書は好きでしたけど、当時はやることがないので、すごく本を読みました」

中学3年生の夏、読書とスポーツざんまいの南アフリカ生活に別れを告げ、日本に帰国することになった。そこで気にかかったのが、高校受験だ。当然のことながら、南アフリカに塾はなく、受験の参考書も手に入らない。日本に帰ったら受験で苦労するだろうな――そう心配した佐渡島だったが、それは杞憂に終わった。日本に戻ってきて模試を受けると、いきなりトップに近い成績をたたき出すことができたのだ。

この経験を通して気づいたのは、「教科書」の大切さだった。

「南アフリカで、教科書だけを延々と解いたのがよかった。実は、教科書に書いてあるレベルのことをしっかりわかっている人は、少ないんですよ。みんな教科書の中身が理解できないのに、それ以外の参考書に手を出してしまう。結局、『ドラゴン桜』で言っているのも、頭がよいかどうかではなく、教科書に書いてあることがわかっているかどうか。最も時間をかけて作られている参考書は、教科書なんですよ」

次ページ半年の勉強で灘高に合格
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事