あの時代を戦い抜いた記者・石橋湛山を読む 湛山は、天下国家の記者だった

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会議に出席する記者たちは自らが提案する特集記事のテーマの要旨を記した起案書を提示し、彼らはそれをもとに活発な討議を行い、編集方針を練り上げていく。

会議では、肩書と役職は関係なし。みな「さん」づけで対等な立場だった(増田弘『石橋湛山──リベラリストの真髄』98頁)。

日中戦争から太平洋戦争に突入する中で、政府当局の言論統制は一層、厳しさを増した。

言論界のアキレス腱は、新聞雑誌の用紙の政府統制である。戦時中、政府はこの用紙割り当てを武器に、新聞と雑誌を締め上げた。

ただ、どんなに苦しくても、やつれても魂だけは売らない。形を残すだけなら続ける意味はない。戦後、湛山はその頃の悲愴な思いを振り返っている。

「東洋経済新報には伝統もあり、主義もある。その伝統も、主義も捨て、いわゆる軍部に迎合し、ただ東洋経済新報の形だけ残したとて、無意味である。そんな醜態を演ずるなら、いっそ自爆して滅びたほうが、はるか世のためにもなり、雑誌社の先輩の意志にもかなうことであろう」。

「自爆」の場合、東洋経済新報社の土地建物を売却し、それを200人余りの社員の退職金として分け、生活を支えて貰う出口戦略を社員たちと話していた(長幸男『石橋湛山の経済思想』25頁)。

湛山のこのような「自爆」反骨精神に不安を覚える関係者もいた。彼らは「自由主義の石橋」がいるから当局ににらまれるのだとして、湛山に引退を勧めた。しかし、湛山は「理由なき外部からの要求に屈従し、迎合」すれば、『東洋経済新報』は「精神的に滅びる」として、退陣を拒否した(「創刊四十九周年を迎えて」1943年11月13日号)

日本から世界に向けて発信

もう一つ、湛山の経営者としての大きな功績は、英文媒体のThe Oriental Economistの発刊である。これはつねに、世界の中によりよく生きる日本の条件を見据え、世界との対話を通じて日本の針路を探求した国際ジャーナリスト湛山ならではのイニシアティブでもあった。

英文媒体の発刊構想を最初に抱いたのは、ワシントンで軍縮会議の頃のことだった。湛山はこの会議にあたって、『東洋経済新報』に、「支那と提携して太平洋会議に臨むべし」(1921年7月30日号)、「大日本主義の幻想」(1921年7月30日・8月6日・8月13日号)、「海軍七割主張無根拠」(1921年12月3日号)などの社説を次々と発表したが、それらが海外ではまったく知られることがなく、問題の解決にほとんど貢献することがないことに歯ぎしりした。

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