あの時代を戦い抜いた記者・石橋湛山を読む 湛山は、天下国家の記者だった

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近衛第三次内閣(1941年7月)や東条英機内閣(1941年10月)の登場の時の論説は、これがあの同じ湛山の筆になるのかと思うほど、緊張感もなく冴えもない。

しかし、彼は戦前の政府の言論統制の制約と戦いながら、言論活動をしなければならなかった。シベリア出兵を批判した湛山論文は掲載禁止処分となった。満州事変後、そして三国同盟後、さらには太平洋戦争突入後、締め付けはいよいよ厳しくなった。

日本の命運を決したこうした政策に対して、それらに反対しながら、日本がその方向に舵を切ってしまった後は、その中でもなお活路がないかどうか、を必死に探求した。ケインズの言葉を借りれば「事実が変わった時(when the facts change)」、それがいかに不本意だろうが、そこから出発し、新たな現実を直視し、課題を捉え直し、実務的イマジネーションを働かせ、その状況下での最適解を見出すことを心がける。そうした当事者意識を湛山は重視した。それを、「現状追認」とか「日和った」との言葉で一括するべきではない。

福沢諭吉とウィリアム・クラークに学ぶ

湛山の同時代は苛酷で息詰まる時代であった。それでも、湛山の筆致は温かい。

湛山には、湛山が生涯敬愛して止まなかった福沢諭吉のおおらかな風格とどこか似通った気質がある。

それは人間と人間社会に対する前向きの楽観主義と、個々のイニシアティブと起業家精神と冒険心を是とするアポロ的な明るさだったのではないかと思う。

2014年夏、私は、湛山の孫に当たる石橋省三氏(石橋湛山財団理事長)に、東京新宿区・下落合の石橋邸にお招きいただいた。応接室には、福沢諭吉が散歩している写真が飾ってある。

そしてもう一つ、札幌農学校の教頭だったウィリアム・クラーク博士の写真が懸けられている。

湛山が学んだ山梨県立第一中学校(甲府一高)の校長は大島正健であり、大島は札幌農学校の第一期生であり、クラーク博士の愛弟子だった。湛山は大島を深く尊敬し、クラーク博士のいわば孫弟子であることを誇りにしていた。

クラーク博士が残した有名な言葉がある。

一つは、校長着任後、校則として掲げたBe Gentlemen!

もう一つは、博士が北海道を去るに当たり、途中まで送ってきた学生に馬上から残したBoys, be ambitious! である。

湛山の訳では、「士君子たれ」と「青年よ志を大にせよ」となる。クラーク博士は、普通に学校で行われる「べからず」主義の校則を一切置かなかった。

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