あの時代を戦い抜いた記者・石橋湛山を読む 湛山は、天下国家の記者だった

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「外から何をせよ、何をなしてはならぬと強うるのでなく、青年の心の中から自発的にその規矩を発明せしめることに眼目を置いた」点、湛山はクラーク博士に真の教育者を見た。(「個人主義の精髄 クラーク先生を思う」『中外商業新報』1937年11月15日号)。

町の経済学者として活躍

湛山はジャーナリストであると同時に研究者だった。パブリック・インテレクチュアル(識者)と形容するのがいちばん、ふさわしいかもしれない。

経済、なかでも金融と財政に関しては、経済理論を研究し、現場から事例とストーリーを掬いだし、それらの事象の相互関係を分析し、本質の解明への思考を深めたが、その底には思想と哲学と歴史の視点があった。

経済学者の中山伊知郎一橋大学名誉教授は、金解禁論争における湛山をはじめとする「町の経済学者」の活躍は「論壇経済学者の手の及ぶところではなかった」とし、石橋経済学の本質は「体系なき体系」だったと評した。

ところで、湛山ほど実務家を招いては次々と研究会をつくった言論人も珍しい。

ワシントン会議の前に、東洋経済新報社内に太平洋問題研究会を設置したのはそのハシリだっただろう。その翌年の1922年、今度は外部からの関係者を招き、金融制度研究会をつくった。これは後に経済統制研究会と改称し、金融学会の前身となった。

それらの研究会の多くは、批評にとどまらず、アイデアと政策の提案を目指した。

同時に、湛山はそれらの取り組みによって東洋経済新報社を「知的高水準の社交場へと導き、経済・貿易・財政に関する膨大なデータを擁するばかりでなく、広く政治・外交面の最新情報をも含む頭脳集積センター、いわば民間のシンクタンクへと躍進させた」(増田弘『石橋湛山─リベラリストの真髄』94頁)。

経済倶楽部設立もそうした試みの一つである。

「クラブ」という社交は、福沢諭吉が重視した市民社会の精神そのものである。

最後に湛山は、東洋経済新報社というメディア企業を率いた経営者であり、『東洋経済新報』という経済週刊誌のエディターでもあった。

経営者であるからして、企業利潤を上げなければならないし、従業員の生活を保証しなければならない。何よりジャーナリズムの現場であるからには、談論風発、風通しのよい職場環境をつくる必要がある。湛山は1925年、第5代主幹に、翌年1月、新報社代表取締役専務に、それぞれ就任した。

その点、湛山は名経営者にして名エディターだった。

後に経済評論家として重きを成した高橋亀吉は1918年に27歳で同社に入社し、当時の編集局長の湛山に鍛えられた。

高橋は後年、湛山が主宰する編集会議のことを懐かしげに回想している。

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