学校行事の暗黙のルールは、「誰が決めたのか」と問うても、答えが見つからない。お互いの推測の積み重ねでできている部分がある、と筆者は考える。
問われているのは、「ある」ことではなく「見える」こと
ここで、「見た目の科学」の視点を加えたい。
この論争で問題にされているのは、タトゥーを「入れているか」ではない。「見えたか」である。発端となった投稿も、半袖半ズボンで参加したらタトゥーが見えていた、という話だった。長袖であれば、おそらく論争にはなっていない。
運動会は、親もラフな格好で参加することが多く、半袖や短パンなど肌の出る服装が増えやすい行事だ。「ある」ものが「見える」ようになる条件がそろう場である。
人は、目に入ったものを次々と無意識のうちに自動的に評価している(※3、※4)。その材料になるのが、過去の経験や、文化の中で身についた連想だ。たとえば、結婚式で黒いネクタイが目に入ると、「黒=弔事」という連想が、考える前に自動的に浮かぶ。
タトゥーも同じである。目に入った瞬間、人によって、さまざまな連想が浮かぶ。暴力団と結びつけて受け止める見方の中で育った人は、怖さや不安を感じるかもしれない。一方、ファッションや自己表現として見慣れている人は、何も感じないだろう。同じ「見える」でも、そこから立ち上がるものは、見る人の経験によって違う。
ここで強調したいのは、規範が発動するスイッチが、その人の人柄や行動ではなく、「どう見えるか」という見た目の情報に置かれているように見えることだ。


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