それでも、先の集英社オンラインの取材によると、都内の公立小学校でPTA副会長を務める保護者は、学校は保護者にそういうことは言えないが、仮にタトゥーを堂々と見せる保護者がいたら、「うまく対応してほしい」という“圧”が雑談レベルで出るだろう、と見通していた。明文のルールがないのに、雑談で空気がつくられているのだ。
こうした「学校行事ではこうするもの」という共有された期待を、ここでは「場の規範」と呼ぼう。厄介なのは、規範が必ずしも誰かの決定によって生まれるわけではないことだ。
「暗黙のルール」は誰が決めたのか
アメリカのプリンストン大学の学生を対象にした興味深い研究がある。同大学では飲酒が日常的な習慣として根づいていて、その雰囲気を学生がどう感じているかを調べたものだ。
学生たちは、「自分は学内の飲酒の習慣に居心地の悪さを感じているが、ほかの学生は平気なのだろう」と思っていた。ところが、実際には、ほかの学生も、居心地の悪さを感じていた。「自分だけが違う」という思いは、錯覚だったのだ。それなのに、お互いに本音を言わないため、みんなが「平気なふり」をする状態になっていたと考えられる。こうした状態を「多元的無知」と呼ぶ(※2)。
もちろん、大学内での飲酒と運動会でのタトゥーは状況が違うし、タトゥーについて直接調べた研究は、筆者が確認した範囲では見当たらない。以下は、あくまで筆者の仮説である。
内心では「別に気にならない」「隠さなくてよい」と思っている保護者でも、「周りの保護者は嫌がるはずだ」と考えて、その本音を口にしない。「浮くのが怖い」と、長袖を着る人もいるだろう。そうして、みんなが隠している様子を見て、「やはりタトゥーが見えると嫌がられるのだ」という思い込みが強まる。
そして「運動会ではタトゥーを隠すもの」という、誰も決めていないルールを、全員が「みんなが望んでいること」として守ることになる。声の大きい意見が、いつの間にか「みんなの意見」に見えてしまう。


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