もっとも、寄せられた批判の中には、タトゥーではなく過去の騒動を持ち出すものも交じる。確かにそれが反応を大きくした面はあるだろう。ただ、論争はすぐに個人を離れ、「タトゥーのある親は、運動会で隠すべきなのか」という一般的な問いへと広がっていった。
集英社オンラインの記事によると、東京都教育委員会の担当者は、保護者のタトゥーに関する指導について「基本的に(保護者のタトゥーに関する指導等は)ないかなと思います」と答えている。学校行事での保護者への対応については、「保護者の対応も各学校の校長が責任を持って行うという形です」と説明したという。
また、大阪市教育委員会も、学校行事での保護者のタトゥーについて、方針を示したり、聞いたりしたことはないと回答したそうだ。
少なくとも、取材を受けた2つの教育委員会は、明確な方針を示していない。それなのに、なぜ「隠すのは当たり前」と非難する人と、「隠す必要などない」と擁護する人に、これほどはっきりと分かれるのか。
本稿では、タトゥーの是非は判断しない。この論争の「構造」を見ていきたい。
「隠すべき」派も「自由」派も、同じ思い込みの中にいる
「批判している人は、タトゥーへの偏見が強いだけ」「擁護している人は、周りへの配慮が足りないだけ」と思うかもしれない。
しかし筆者は、どちらの側にも同じように、ある心理が働いている可能性があると考えている。心理学で「ナイーブ・リアリズム(素朴実在論)」と呼ばれる現象だ。
自分は物事をありのままに見ているが、自分と違う意見の人は、先入観や個人の都合で歪んで見ている――そう思い込んでしまう傾向のことである。


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