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「崖上で水害の心配なし」「坂だらけで23区内なのに車必須?」…世田谷区にある「代々のお金持ちがひっそり住む街」の実態

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等々力渓谷
世田谷区にある″隠れ高級住宅街″等々力はどんな場所?(写真:筆者撮影)
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狐塚古墳は緑地として整備され、一般人が入れるようになっている(写真:筆者撮影)

なお、等々力はもう一つの特徴として、街のあちこちに古墳や史跡が点在。等々力1丁目内には5~6世紀に造営された『御岳山古墳』があるし、等々力渓谷公園内の横穴墓には、古墳時代末期から奈良時代頃の有力者が今も眠っていると推測されている。高級住宅街ができるはるか以前、古墳や墓を造った当時の首長や豪族も、この土地の環境や景観を好んでいた証左だ(なお、隣接する尾山台2丁目には『狐塚古墳』がある)。

通常は一般非公開となっている御岳山古墳(写真:筆者撮影)

急速な宅地化に一石を投じた「多摩川風致地区」指定

地形的・環境的な特徴に加えて、等々力が高級住宅街となるまでには、大正~昭和初期の郊外開発が大きく関与している。

現在の世田谷区南部に当たる地域は、明治時代まで穏やかな農村であった。しかし1923年(大正12年)の関東大震災で東京の都心部が壊滅し、都心から郊外への人口移動が加速。それにより等々力周辺でも、一気に宅地化の需要が高まることとなった。

この宅地化にあたり、現在の等々力一帯を含む玉川村(1932年廃止)の全域で、大正末期より「玉川全円耕地整理事業」が展開された。これは玉川村の宅地化を見越し、村地が造成されないまま安値で買い叩かれることを防ぐため、土地を守りつつ道路や下水道など住環境を整える取り組みであった。これにより旧来の耕地が新しい道路や土地として区画整理され、後に住宅地となる基礎が出来上がる。

宅地整備に加えて電車が通ったことが、等々力の街を大きく変えた(写真:筆者撮影/敷地外から撮影し、トリミング)

さらに移住・発展の追い風となったのが、等々力地域への鉄道進出だ。1922年(大正11年)に設立された目黒蒲田電鉄(後の東急グループ)は、1929年(昭和4年)に等々力を含む大井町線の大井町駅〜二子玉川駅間を全線開通。これにより都心方面との交通利便性が向上し、等々力の人口と住宅はますます増えた。

周辺の商店や行楽施設も増えたことだろう。先に触れたゴルフ橋も、実は1931~1939年に存在したという『等々力ゴルフコース』に由来するものだ(現在の赤いアーチ橋は昭和36年5月の架橋)。だが、急激な人口増大や商業施設の登場は、街に賑わいと活気をもたらす反面、時にはその景観や雰囲気を望まれない方向へ変容させてしまうものだ。当時の等々力の住民や行政も、そうした懸念を抱いていたのかもしれない。

等々力の自然景観を維持するため、1933年(昭和8年)には等々力1丁目を含む多摩川近辺~国分寺崖線の周辺が「多摩川風致地区」に指定された。この指定は建築や土地利用に一定の制限を設けるものであり、現在も有効である。あわせて等々力では、多くの区画が都市計画法上の「第一種低層住居専用地域」に含まれている。これにより建物の建ペい率や容積率に厳しい制限が加えられたことで、住宅の過密化が抑制され、ゆったりした土地に低層の戸建て住宅がならぶ街となった。

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