天正11年(1583)4月、賤ヶ岳の合戦で勝家は秀吉に敗北。その後、北ノ庄城にて壮絶な最期を遂げるのでした。茶々の母・お市の方も夫・勝家と運命を共にします。
茶々とその妹らはこれまた落城前に城を脱出しますが、彼女らはとうとう実の母まで亡くしてしまったのです。茶々はまだ14歳でした。
北ノ庄城落城後、茶々ら3姉妹は秀吉の庇護を受けますが、どこでどのようにして過ごしていたかは不明です。叔父の織田有楽(信長の弟)のもとにいたとする説や、秀吉側室の京極龍子(その母は浅井久政の娘)のもとにいたとする説があります。
茶々が秀吉の側室となった時期の謎
その後、茶々は前述のように秀吉の側室となりますが、その時期については諸説あります。
1つは天正16年(1588)説。これは翌年5月に茶々が鶴松を産んでいるので、そこから逆算したものです。
2つ目は天正14年(1586)説。これは『言経卿記』(安土桃山時代の公家・山科言経の日記)の天正14年10月1日条に「茶々御方」が「大政所」(秀吉の母)を訪問したとの記述を根拠にしています。
「御方」とは貴人の妻妾を敬う言葉ですので、天正14年10月までには茶々は秀吉の妻になっていたと筆者も推定しています。
『渓心院文』(お市の方の次女・初に仕えた女房による覚書)には、秀吉は茶々に使者を遣わし、求婚したとあります。
茶々は秀吉の願いに対し、妹たちをしかるべき家に嫁がせてくれるならば、その願いを受け入れると返答したとのこと。
秀吉は初を京極高次(母は浅井久政の娘)に、江を羽柴秀勝(秀吉の甥)に嫁がせることになります。
『渓心院文』には「斯様に御親なしになりまいらせられ、御頼みなされ候うえは」(このように親なしになって、秀吉を頼みにするからには)との茶々の秀吉への返答も記されていますが、そこからは「親なし」となった茶々の心細い心境が伝わってくるでしょう。
またその後には「如何様にも御指図次第」(どのようにも秀吉の指図通りにする)との茶々の言葉も見えます。


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