力強く生きた、明治の女性を描こうと思ったのであれば、選択肢はいろいろあったと思われる。男の匂いがほとんどしない樋口一葉や、『女人芸術』を創刊して、ダメ男の放蕩を許した長谷川時雨。または、生涯を女性教育に捧げた津田梅子、「鹿鳴館の貴婦人」と呼ばれた大山捨松とか。魅力的でありながら概ね常識内の生活を送った女性はたくさんあっただろうに、寂聴先生は、よりによってダブル不倫逃避行した田村俊子を選んだわけだ。諦めないというか、懲りないというか。
一世を風靡した女流作家の軌跡
田村俊子は今や「過去の人」となっていて、名前を聞いてもピンとこない人は多いけれど、明治の終わりに、彼女は彗星の如く文学界に姿を現し、瞬く間に時代の寵児となった。
文学少女の俊子は幸田露伴のところに弟子入りして、若いときに同門の田村松魚という人と結婚した。夫婦揃って作家志望だったが、俊子の方が優れた文才に恵まれていたことが早い段階から明らかとなった。「生血」、「女作者」、「炮烙の刑」といった作品が注目され、その官能的な作風が高く評価されることによって、彼女はやがて人気作家へと変身したのだ。
ところが、華やかな活動は長く続かなかった。働かない夫への不満が溜まりまくるし、俊子自身の浪費癖がひどくなる一方で、いくら稼いでもお金が足りない。ちょうどそのとき、彼女は2歳年下のジャーナリスト鈴木悦と知り合って恋に落ちる。そして彼の後を追って、カナダへと渡った。
俊子と松魚はきちんと籍を入れていたかどうかはやや微妙なところだが、鈴木悦が妻子持ちだったことは確かだ。そのニュースが知れ渡り、世間に激震が走った。なにせ、不倫はまだ犯罪だった時代である。
のちに俊子は18年の海外生活を経て、鈴木悦の死を機に日本に戻る。一旦作家として復活しようとしたが、かつての筆力はもうなかった。それに、作家・佐多稲子の夫に手を出し、彼女は再びスキャンダルまみれになる。日本での生活に限界を感じた俊子は中国へと移住し、1945年に、上海で帰宅途中に倒れて、61歳で亡くなった。
引用文は『田村俊子』から抜粋された一節だが、もし主語が伏せられていたとしたら、誰もが「寂聴について書かれている」と言われても納得するに違いない。そう、田村俊子と寂聴先生の間には驚くほどの共通点がある。官能的な作風、華やかな生活、そして激しい恋。そのすべてにおいて、2人はよく似ている。


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