一方、家康が大胆な行動に出たことを意外に思う人がいるかもしれない。「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」という、有名な風刺の歌からも、家康には「焦らず我慢して天下を取った」というイメージが強い。
また、幕末期に幕臣の池田松之助が「家康の遺訓」として創作した「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし」というフレーズが後世に流布した影響も大きい。「家康=辛抱強くて慎重」と思われがちだ。
「我慢強い慎重派」ではなかった家康
だが、その生涯を振り返れば、むしろ家康のイメージは「機を見るに敏」。幼い頃から人質として今川家の支配下にありながら、永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで、「義元が討ち死にした」という情報が寄せられると、家康は大高城を出発して、妻子が待つ駿府城ではなく、生まれ故郷である岡崎城へ向かう。
そして、今川勢が岡崎城から撤退するのを見計らってから、「捨て城ならば拾わん」(『三河物語』)と言って入城。今川家と一戦を交えることなく、家康は10年半ぶりに岡崎城に返り咲いた。
また、その後の三河支配にあたっても、家康は一向宗寺院などに認められていた、年貢免除や公権力の立ち入りを拒む「守護使不入(しゅごしふにゅう)」の特権を侵す形で、強引に支配を進めていった。
その結果、各地で一揆が勃発すると、家康はいったん和睦して一揆を収束させたものの、その後、寺院の破却や僧・門徒の追放を進めた。
もちろん、なかには判断ミスもあった。武田信玄との「三方ヶ原の戦い」では、家康が数的不利にもかかわらず、信玄の挑発に乗り、感情に任せて出陣している。『三河物語』によると、このときの家康は、家臣たちの忠告にも耳を貸さなかったという。信玄相手に歴史的な大敗を喫することとなった。
その真偽はともかく、「家康=辛抱強くて慎重」という後世の印象を聞けば、当時の家臣は「いやいや……」とかぶりを振ったに違いない。


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