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《小牧・長久手の戦い》が勃発!"辛抱強くて我慢強い"イメージがある家康の「意外と大胆な素顔」

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徳川家康(写真:akg-images/アフロ)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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信雄の反抗に秀吉は「もってのほか腹立て」と『兼見卿記』には記されているが、背後に家康がいることも、すでに把握していたことがうかがえる。3月26日には、関東の有力大名である佐竹義重に宛てて、「今度、家康が裏表のある態度を取って、若輩者の信雄を言いくるめた」としながら、3家老が殺害されたことを記している。

その後、3月28日には家康が小牧山に、秀吉が楽田に、それぞれ本陣を移した。翌29日には信雄も小牧山に入り、両軍はついに尾張の地で対峙することになる。

信雄が大胆に秀吉に歯向かったワケ

信雄が仕掛けたのは、これまでの秀吉による織田家への仕打ちをよくよく見てきたからだろう。明智光秀による「本能寺の変」で、織田信長が自刃すると、嫡男の信忠も命を落とすことになる。

天正10(1582)年6月27日、織田家の今後を議論する「清須会議」が開催された。従来は織田家の当主を決める会議とされてきたが、近年では、織田家の後継者として信忠の嫡男・三法師を立て、その幼い三法師を誰が支えるのかをめぐって協議した会議だったとみる見方が有力になっている。

信長が倒れる前にすでに家督は信忠に譲られていたことを思うと、その信忠も亡くなった今、信忠の嫡男である三法師が継承するのは確かに自然だ。会議が三法師の居城である清須城で行われたことも、すでに次期当主は決まっていたとすれば筋が通る。

三法師の名代をめぐって、信長の次男である信雄と、三男の信孝が争うことになったが、結局は4人の重臣(羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興)が三法師を支えるかたちでまとまった。

だが、そんな新体制は早々に瓦解する。三男の信孝は重臣の柴田勝家と手を組んで、三法師を岐阜城に留め置くなどしたため、秀吉はそれに対抗すべく、三法師が成長するまでの暫定的な当主・名代として、次男の信雄を担ぎ出した。その後は、冒頭に説明したとおり、賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れると、信孝も自害することになる。

信雄からすれば、三法師は織田家の当主の座から外され、信孝も自害に追いやられて、織田家のライバルがいなくなった反面、「明日は我が身だ」と考えるなというほうが、難しいだろう。

台頭著しい秀吉の勢いを早くそがなければならない、と家康と手を組んだうえで、対抗策に出たのは「勇気」というより「恐怖」から出た行動だったと考えられる。

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