拡散や特定を望まない趣旨の説明があったとされる一方で、転載は広がった。しかも、先に見たように、それを受けた報道では発生駅や日時、事案の経緯まで具体化している。人物そのものの特定にはまだ遠いが、元投稿の段階より特定は容易になった。
識別可能な映像を公開すれば、投稿者の意図を離れて流通し得る。その可能性を、公開する時点で予測できなかったか。これは投稿者の是非を問うのではなく、公開前に“余波”を予見できたかという可能性の問題である。
一方で、映像が危険性を具体的に可視化した面はある。文章だけで注意を促すより、発車した列車へ近づく危険を強く伝えられたという、公益的な側面まで否定するべきではないだろう。
ただし、公益性があれば、どのような公開方法でも許されるわけではない。元動画であれば、顔や音声をどこまで処理するのか、映像の尺や公開期間は適切か、といった点は検討の余地がある。
また転載においても、出典元の明記でこと足りるのか、映像そのものを再掲する必要があったのか。たとえ「安全運行という正義」を理由にしても、それが「親子のプライバシー保護という正義」を超越するものだと言い切ることは難しい。
情報発信では、目的に応じた方法を選ぶ責任が問われる。とくに映像は、受け手に対して与えるインパクトが大きい。それを見た人々が、どのような印象を持つか。常に先回りしながら考える必要があるのだ。
ホームには線がある。SNSには引かれていない
発車後の列車へ近づいた行為と、その映像を利用して個人をさらしたり、特定しようとしたりする行為には、それぞれ異なる問題がある。
そして、一方に非があったからといって、もう一方が免責されるわけではない。危険行為を批判することと、過剰なさらしを批判することは両立する。
鉄道を利用する側には、安全運行を妨げないためのリテラシーがいる。そして、映像を発信し、受け取る側にも、注意喚起と過剰なさらしを区別し、必要以上の“私刑”につながらないようにするリテラシーが求められるのだ。
ホームには、点字ブロックという目に見える境界線がある。一方、SNSには「注意喚起」と「過剰なさらし」を分ける、目に見える線は引かれていない。だからこそ、列車から一歩離れる判断と、拡散する前に一歩引く判断の両方が必要ではないだろうか。


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