また医師が「左側に回ればお顔がよく見えます」といい、今度は布の左側をめくってくれました。左手の甲をさすっていると、ぬくもりが濃くなりました。彼は気ぜわしく小走りに死の世界に向かっていました。
10分ほどさすり続けたでしょうか。医師がもうそろそろといい、私たちはベッドのそばを離れました。
それが、彼とのお別れになりました。彼が過酷な戦いを終えたのは、それから約2時間半後です。
右手の皮膚温が高く感じた理由を考える
実は私には、彼の死の直後からいまだに残る勝手な思いがあります。司馬さんの手のぬくもりは右手と左手とで微妙に違っていたな、という思いです。
あとで、友人の医師に聞くと、右手と左手の皮膚温は、そのときの状況次第で微妙に違うんだそうです。ただ、私には右手の方が高かったと思うわけです。
彼は遠くなっていく意識のなかで命の灯が消えるその瞬間まで愛用のパーカーを右手に握り、この国の行く末についていい残したことを書き続けていたのではなかったかと思いました。
そして、そのぬくもりを通して、私たちになにかを託そうとしたのではないか。私はいまだにそう思うことにしています。
司馬遼太郎は、戦車隊下級士官として敗戦を迎えました。九十九里浜の海で、
「この国で生きている自分たちがかなしくなって、波に揺れもどされつつ、思いきり泣いてしまった」
と、「私の関東地図」と題したエッセーに書いています。
悲しみの裏には、「私たちが愛している日本はこんな国ではなかった」という思いがあり、「日本・日本人とは本当はこういうものではないのではないか。それがどうして、こんなダメな日本・日本人になってしまったのか」という疑問があったのではないでしょうか。
彼の小説、史観は大雑把にいうと、この疑問から出発したといえます。ですから、彼は自らの作品群を「22歳の自分への手紙」だ、と語っているわけです。
いわゆる「司馬史観」と呼ばれるものについてはのちにも触れますが、彼が関心を持った日本の歴史の中で、日本のよさ、日本人の素晴らしさを発見するとすれば、やはり「明治維新」だった。そして、維新をなしとげた人々たちの遺産といえる「明治国家」だったろうと思います。
今日の近代日本のかたち(原型)は明治につくられ、その明治は、まだ私たちの身近なところにある、と司馬さんは考えた。
司馬さんは平成元年に、NHKテレビで「太郎の国の物語」という番組に出演しています。のちに『「明治」という国家』という表題でNHK出版から出版されています。これを読むと、いかに明治に注目したか、そしてその理由がわかりますね。
もとの番組のなかで、司馬さんはいっています。


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