「“明治”というのは、あらゆる面で不思議で大きくて、いろんな欠点がありましたが、偉大でしたね。ただ“明治時代”という時代区分で話さずに、“明治国家”という、もうこの地球上の、地図の上にはない、1868年から44、5年続いた国家がこの世にあって、人類の中にあって、それは、どういう国でしたかということを今日のひとびとに、できれば他の国のひとびとにも知ってほしいというか、聞いてほしい」
こうもいいます。
「明治国家という、人類文明のなかでにわかにできた国(中略)いまの日本国がその系譜上の末裔に属するかもしれないが、あるいは、そうでもなく、人類の一遺産であるかのようにも思っている」
明治国家日本こそが、司馬さんにとって「よき日本」「愛すべき日本」だったといっていいと思います。それは決してノスタルジア(郷愁)などではありません。
司馬さんは、その「よき明治」を出発点とし、彼が、九十九里の浜辺で涙した「だめな昭和」にいたる近代日本の歩みを語るために、「戦争」という舞台を用いました。
戦争は非常事態です。ケンカをすれば、本性がむき出しになります。戦争は、その国とその国の人々の風景を凝縮し、鮮明にします。
しかも彼は、戦争という舞台に、それまでの歴史で比較的隠れていた存在を主役として登場させました。
坂本龍馬にしても、『竜馬がゆく』以前は、いまのような知名度はありません。新選組にしても、局長の近藤勇ではなく、副長の土方歳三ですね。『花神』の大村益次郎は靖国神社に銅像がありますが、どんな人なのか、それほど知られてはいなかった。『峠』の河井継之助を知る人は、どれだけいたでしょう。おそらく長岡以外ではあまりいなかったのではないでしょうか。
彼らは、司馬さんが「創造」したといっていいでしょう。歴史にうずもれていた、あるいは誤解されていた人物を掘り起こし、長編小説の主人公に据えた。
時代の常識からはかけ離れ、突出している「漢」
彼らを、司馬さんは「漢」と書いています。性別を示す男ではなくて、「漢」。では「漢」とはどういうものなのか。
正義を背負っているとか、仁義に篤いとか、カッコいいとか、そんなものではまったくありません。どちらかというと、時代の常識からはかけ離れ、突出している人たちでした。
しかし、時代というものは常になんらかの狂気に動かされています。
しかも、時代は明治維新前夜ですね。攘夷であれ、佐幕であれ、みなどこか狂気のさなかにある。不合理だらけの時代なのです。
彼らはそういった時代の狂気、不合理さから自由であろうとした。時代を超えた合理性を持ち、自らの合理性を信じることに躊躇がない「漢」たちでした。そのために非業の最期をとげることにもなるのですが、司馬さんはそうした漢たちを通して維新前夜の歴史を描いた。
私はそこが彼の歴史小説の魅力であると思います。そしてまた、彼自身の魅力でもあります。なぜなら、彼自身が見事な漢であったと私は思うからです。



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