やがて退職し、刺しゅう屋を始める田中さんの歩みと挑戦を、著書『東大卒、年収1100万をやめて刺しゅうをはじめたワケ 冷めたまま働きつづける前に』より一部を抜粋し、2回にわたってご紹介します。本記事は1回目です。
人間を忘れた夏
2023年の夏が、いつ終わったのか、私はあまり覚えていません。朝起きる。スマホでメールを見る。タクシーに乗る。会社に着く。デスクに座る。画面を見る。昼を急いで食べる。また画面を見る。夜中に帰る。シャワーを浴びる。寝る。また朝になる。外を歩いていない月が、何カ月も続きました。
桜が咲いたのか。紫陽花が咲いたのか。セミが鳴いていたのか。夜風が涼しくなったのか。よくわかりません。私が毎日見ていた色は、だいたい決まっていました。オフィスのカーペットの灰色。モニターのグレー。エクセルの青。深夜のビルの窓。タクシーの座席。
徹夜は、ありました。仮眠も取らず、40時間ぶっ通しに近い集中をする日もありました。夜10時に出社して、次の日の午前11時まで案件を進め、そこから別の案件に移り、またその日の夜中まで続く毎日に色はありませんでした。締切の時間は刻んでも、季節は刻めませんでした。

