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なぜこの島は「地図から消された」のか…年間20万人が訪れる広島「うさぎの島」に眠る、廃墟と毒ガス製造16年の爪痕

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大久野島の発電所跡とうさぎ
大久野島の発電所跡とうさぎ(写真:筆者撮影)
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発電所跡。毒ガス製造のための電気を作っていた建物で、フェリーからもその姿が見えるほどの大きさだ。壁に英語の文字があるのは、朝鮮戦争時に米軍の弾薬庫としても利用されたから。建物の劣化が進んでおり、現在は立ち入り禁止になっている。島内にはすでに崩壊した建物もあるが、修復や保存の予定はないという(写真:筆者撮影)
長浦毒ガス貯蔵庫跡。島内で最も大きい貯蔵庫だった。戦後処理の際、毒ガス製品を火炎放射器で焼き払ったため、内側が黒く焼け焦げている(写真:筆者撮影)
三軒家毒ガス貯蔵庫跡。10トン入る大きなタンクが置かれ、イペリットが貯蔵されていた(写真:筆者撮影)
中部砲台跡。芸予要塞時代の砲台は、毒ガス製品や原料の置き場としても使われた(写真:筆者撮影)

敗戦から56年、国が歴史を認めるまで

1945年(昭和20年)8月15日、戦争が終わった。このとき、大久野島には二千数百トンの毒ガスが残されていた。

毒ガス遺構のそばでうさぎたちが跳び跳ねる。大久野島の光と影が交錯する(写真:筆者撮影)

戦後の毒ガス処理の指揮を執ったのは連合軍側、実際の作業にあたったのは日本人である。残った毒ガスは容器に詰めて海中に投棄され、あるいは地中に埋めて処理された。その後、1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍は大久野島に弾薬庫を置く。ようやくアメリカの軍事使用から大久野島が返還されたのは、1957年(昭和32年)のことだった。

毒ガス工場の総従業員数は、戦後処理に関わった人も含めて、16年間で約6500人にのぼる。その中には、徴用令によって従事させられた10代の徴用工、動員学徒、医師や看護婦もいた。彼らは戦後も呼吸困難や気管支炎、癌など、毒ガスの後遺症に苦しんだ。中でも被害が大きかったのは、毒ガスに関する知識をほとんど持たないまま、戦後処理にあたった人たちだという。

戦後、広島大学や竹原市の医師たちは、被害者の後遺症や死因について調査を始めた。そして、毒ガスとの因果関係を示し、被害者救済のための嘆願書を提出する。しかし、毒ガス使用の歴史を認めない国は、被害者の救済や補償に応じなかった。被害者たちは援護策を求めて団体を結成し、交渉にあたる。交渉はなかなか進まず、団体の数は10にもなった。

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