敗戦から56年、国が歴史を認めるまで
1945年(昭和20年)8月15日、戦争が終わった。このとき、大久野島には二千数百トンの毒ガスが残されていた。
戦後の毒ガス処理の指揮を執ったのは連合軍側、実際の作業にあたったのは日本人である。残った毒ガスは容器に詰めて海中に投棄され、あるいは地中に埋めて処理された。その後、1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍は大久野島に弾薬庫を置く。ようやくアメリカの軍事使用から大久野島が返還されたのは、1957年(昭和32年)のことだった。
毒ガス工場の総従業員数は、戦後処理に関わった人も含めて、16年間で約6500人にのぼる。その中には、徴用令によって従事させられた10代の徴用工、動員学徒、医師や看護婦もいた。彼らは戦後も呼吸困難や気管支炎、癌など、毒ガスの後遺症に苦しんだ。中でも被害が大きかったのは、毒ガスに関する知識をほとんど持たないまま、戦後処理にあたった人たちだという。
戦後、広島大学や竹原市の医師たちは、被害者の後遺症や死因について調査を始めた。そして、毒ガスとの因果関係を示し、被害者救済のための嘆願書を提出する。しかし、毒ガス使用の歴史を認めない国は、被害者の救済や補償に応じなかった。被害者たちは援護策を求めて団体を結成し、交渉にあたる。交渉はなかなか進まず、団体の数は10にもなった。

