有料会員登録 東洋経済オンラインとは
ライフ

なぜこの島は「地図から消された」のか…年間20万人が訪れる広島「うさぎの島」に眠る、廃墟と毒ガス製造16年の爪痕

13分で読める
大久野島の発電所跡とうさぎ
大久野島の発電所跡とうさぎ(写真:筆者撮影)
2/6 PAGES
3/6 PAGES

最初に着手したのは、第一次世界大戦に登場し「ガス兵器として最高の性能を持つ」と評価されていた、びらん性ガスのイペリット(マスタードガス)の製造だ。フランスから輸入したイペリット製造装置を使っての製造は、困難を極めた。ようやく製造が軌道に乗ってくると、今度は自分たちがその毒に苦しめられた。

足の甲を被毒したときのことを、服部さんは「腫れあがった皮膚と肉とが二層に分離されたように感じられ、皮膚が引き締められ耐え難い痛みであった。歩行困難のため下宿に閉じこもって二週間休養した」と記している。

毒ガスの研究開発を行った研究所跡(写真:筆者撮影)

うさぎは毒ガスの影響を調べるために使われていた

毒ガスの影響を調べるために使われたのは、うさぎだった。ガラス張りの部屋の中でピョンピョン跳ねまわっていたうさぎが、昏睡状態になり、激しく痙攣する。「この痙攣こそ死の宣告なので、若し人為の最善を尽くすとすれば絶対にこの症状以前でなくてはならなかった」(『秘録 大久野島の記』より)。

ガスマスクや防護服を身につけていても、隙間から入ったガスや液体が体を侵す。工員の多くは健康を損ねた。急性・慢性の気管支炎や咽頭炎、急激な失明状態、皮膚の水疱、色素沈着。命を落とした人もいる。犠牲者が出てからは、ガス漏れの危険がある場所にはジュウシマツを置き、その様子を観察してガス濃度を判断するようになった。

防毒衣とガスマスク(毒ガス資料館所蔵)。『秘録 大久野島の記』には、危険な毒ガスの製造では「作業員はゴム布で作った防毒服の上に、防毒面、ゴム手袋、ゴム長靴、ゴム前掛け、さらに頭には、木綿性の白頭巾を着て危害予防に努めた」とある(写真:筆者撮影)
毒ガスの製造には、薬品に反応せず熱に強い陶磁器が用いられた(写真:筆者撮影)

製造した毒ガスを満州のチチハルなどへ送ったと、服部さんは書いている。日本軍はこの毒ガスを、中国戦で使用した。

野ざらしの毒ガス貯蔵タンク跡。林の中に、毒ガスタンクを置いていたコンクリートの台座だけが残っている(写真:筆者撮影)

1944年(昭和19年)からは、風船爆弾の風船部分も製造した。風船爆弾とは、和紙を糊で貼り合わせて作った直径10メートルの風船に水素を詰め、爆弾をつけたものだ。この作業に携わったのは、動員された学生たちだった。

動員された学生のひとりに、忠海高等女学校の生徒だった岡田黎子さんがいる。15歳の岡田さんは船で大久野島へ通い、風船爆弾の製造やドラム缶の運搬作業などにあたった。1945年(昭和20年)8月には、原子爆弾が落とされた広島市の被害者救護活動に動員され、入市被爆もしている。

岡田さんは美術教員として勤めたのち、自身の戦争体験をまとめた画集を出した。

「(風船爆弾は)子供達を含めたアメリカ市民を爆死させていたのです。私達のしたことは、まぎれもなく殺人行為だったのです」(岡田黎子著『大久野島・動員学徒の語り』より)。その言葉に、戦争に翻弄され、被害者にも加害者にもなった岡田さんの苦しみがにじむ。

岡田黎子さんが描いた風船爆弾製造の様子。(毒ガス資料館所蔵)(写真:筆者撮影)
4/6 PAGES
5/6 PAGES
6/6 PAGES

こちらの記事もおすすめ

あなたにおすすめ

ライフ

人気記事 HOT

※過去1ヶ月以内に配信した記事の閲覧数