最初に着手したのは、第一次世界大戦に登場し「ガス兵器として最高の性能を持つ」と評価されていた、びらん性ガスのイペリット(マスタードガス)の製造だ。フランスから輸入したイペリット製造装置を使っての製造は、困難を極めた。ようやく製造が軌道に乗ってくると、今度は自分たちがその毒に苦しめられた。
足の甲を被毒したときのことを、服部さんは「腫れあがった皮膚と肉とが二層に分離されたように感じられ、皮膚が引き締められ耐え難い痛みであった。歩行困難のため下宿に閉じこもって二週間休養した」と記している。
うさぎは毒ガスの影響を調べるために使われていた
毒ガスの影響を調べるために使われたのは、うさぎだった。ガラス張りの部屋の中でピョンピョン跳ねまわっていたうさぎが、昏睡状態になり、激しく痙攣する。「この痙攣こそ死の宣告なので、若し人為の最善を尽くすとすれば絶対にこの症状以前でなくてはならなかった」(『秘録 大久野島の記』より)。
ガスマスクや防護服を身につけていても、隙間から入ったガスや液体が体を侵す。工員の多くは健康を損ねた。急性・慢性の気管支炎や咽頭炎、急激な失明状態、皮膚の水疱、色素沈着。命を落とした人もいる。犠牲者が出てからは、ガス漏れの危険がある場所にはジュウシマツを置き、その様子を観察してガス濃度を判断するようになった。
製造した毒ガスを満州のチチハルなどへ送ったと、服部さんは書いている。日本軍はこの毒ガスを、中国戦で使用した。
1944年(昭和19年)からは、風船爆弾の風船部分も製造した。風船爆弾とは、和紙を糊で貼り合わせて作った直径10メートルの風船に水素を詰め、爆弾をつけたものだ。この作業に携わったのは、動員された学生たちだった。
動員された学生のひとりに、忠海高等女学校の生徒だった岡田黎子さんがいる。15歳の岡田さんは船で大久野島へ通い、風船爆弾の製造やドラム缶の運搬作業などにあたった。1945年(昭和20年)8月には、原子爆弾が落とされた広島市の被害者救護活動に動員され、入市被爆もしている。
岡田さんは美術教員として勤めたのち、自身の戦争体験をまとめた画集を出した。
「(風船爆弾は)子供達を含めたアメリカ市民を爆死させていたのです。私達のしたことは、まぎれもなく殺人行為だったのです」(岡田黎子著『大久野島・動員学徒の語り』より)。その言葉に、戦争に翻弄され、被害者にも加害者にもなった岡田さんの苦しみがにじむ。

