三ッ星靴下は1948年創業で、70年以上の業歴を誇った。婦人・紳士用靴下をメインに、タイツなどの製造も手がけ、大手アパレルメーカーや問屋向けに販路を拡大した。バブル期を経て、90年代初頭には販売子会社を含むグループ売上は約100億円を超え、県内有数の名門企業の一つに数えられるほどだった。
93年に東京商工リサーチが発刊した企業紹介誌に、三ッ星靴下が掲載されている。
従業員の声には、「入社後数年で憧れのスポーツカーを購入することができた」、「働きながら保育士の資格も取ることができた」など、夢を語り、それを実現できる会社と紹介されている。男女別の社員寮も完備し、社内のボウリング大会や親睦会など、当時としては地元でも指折りの働きやすさが魅力だったことをうかがわせる。
だが、円高が加速した90年代、製造コストの上昇に対抗して生産の海外移転が加速した。この流れは当然、地場の繊維業にも押し寄せたが、三ッ星靴下は事業構造改革への取り組みが後手に回った。事業拡大期に国内工場への機械設備や社員寮整備などに相次いで投資した結果、借入依存の経営に陥っていたことが背景にあった。さらに、円高で安価な海外製品が一気に流入し、経営に暗雲が立ち込めた。
コロナ禍の布マスク特需も一巡
90年代後半から2000年代にかけ三ッ星靴下の業績は下降の一途をたどった。ピーク時は200人以上を抱えた従業員も10分の1に削減し、取引先も先細りして売上高は10億円を割り込んだ。この状況を打開するため、医療用ソックスやスポーツ用ソックスなど、高機能製品づくりに力を注いだ。コロナ禍では生産設備を利用した布マスク生産に転換し、一時は特需もあったが、その効果は一過性で終わり、状況打開にはならなかった。
経営再建のため不動産を売却して借入金の圧縮に努め、奈良県中小企業活性化協議会の支援を得て債務整理にも取り組んだ。だが、事態は好転せず、25年に資金繰りに行き詰まり、万策尽きて破産申請に追い込まれた。
破産申立書によると、「在庫商品については長年に亘っての実態と合致しない(粉飾)が行われている」と記載されていた。関連会社向けと推測される回収不能の売掛金が、長年の澱(おり)のように堆積していたことも明らかになった。破産手続きは粛々と進み、地場産業的名門企業は70年の幕を閉じた。

