たとえば、「ルールを疑わずに、まず愚直に取り組んでみる」という時間を持てたこと。ルールを疑う力はもちろん大事ですが、疑ってばかりで一度も本気でプレイしたことがない人は、たぶん「疑いの解像度」も上がっていかない。
一度、目の前のゲームに全力で飛び込んで、負けて、また挑んで、というプロセスを経たからこそ、あとから「あ、ルールを疑うという発想もあったのか」という気づきに、深く納得できたのかもしれません。
もっと言えば、「コスパの悪い選択を、あえて選んだ経験」そのものが、いま原稿を書くときの、ある種の元手になっている気もします。もし僕が現役でスマートに早慶に進んでいたら、「東大生って社会に出たら使えないよね」というコメントに、こんな粘っこさで向き合うこともなかったでしょうし、そもそもメディアに呼ばれる立場にもなっていなかったはずですから。
“賢い選択”と“意味のある選択”は、たぶん別物
だから、コメント欄の「2浪はバカ」という指摘に対して、僕はいまでもうまく反論できません。反論できないし、たぶん、その指摘は事実として正しい。
でも、「賢い選択」と「その人にとって意味のある選択」は、どうも別物らしい、というのが、いまの僕のなんとなくの結論です。
ルールを疑って最短距離を行く人は、間違いなく賢い。それは認めます。でも、ルールに愚直に殴られながら、その中で悪戦苦闘した時間もまた、後になって別の形で効いてくることがある。少なくとも、僕自身にとってはそうでした。
「本当に頭がいい」の定義を、僕はこれからも探し続けると思います。ただ、そのときに一つだけ言えるのは、「頭のよさ」と「その人の人生にとっての正解」は、必ずしも同じではない、ということ。
2浪して東大に行った僕が、「指定校推薦で早慶に行くのが正解でしたね」と素直に頷けないのは、たぶん、そのあたりに理由があるんだろうなと思っています。

