街の歴史を紹介した前編に続く本稿では、根津で市街地再開発事業が行われず、大型施設が生まれない理由を分析する。
本連載で書いてきたとおり、東京23区の街は大正の関東大震災や昭和の太平洋戦争で焼失し、そのあとに区画整理されたか、あるいは都市基盤が整備されないままに市街化が進んだかによって、今の街並みの基礎が築かれていることが多い。
しかし根津は関東大震災で焼失を免れ、太平洋戦争でも被害を受けなかった。このことが根津の街のカギを握っている。
1980年代後半のバブル期、根津では地上げの波が押し寄せていた。特に幹線道路である不忍通り沿道が狙われ、それだけでなく震災や戦災を免れた古い路地の街もターゲットとされ、戦前からの住宅がマンションに変わったという。
地上げに対抗したのが地元住民である。「根津の環境を良くする会」の活動が始められたり、1987(昭和62)年に文京区の住民らが「まちづくりを考える住民懇談会」を結成したりした。
「まちづくりを考える住民懇談会」には、1984(昭和59)年から2009(平成21)年にかけて刊行された地域雑誌『谷中・根津・千駄木』の編集者も参加したという。同誌の編集者は雑誌の刊行にとどまらず、さまざまな活動によって街の保全を訴えてきた。
根津は戦災を免れたことから風情ある街並みが残っており、それを保全しようとする住民の意向が強かったのである。
文京区は幹線道路沿いを中高層化
では、文京区の考えはどうなのか。
区は1987(昭和62)年に「文京区まちづくり指針」を策定し、再開発を進める3拠点を定めた。そのひとつに根津と、隣接する千駄木も含まれていた。この指針では、不忍通りをセットバックして沿道の建物を高層化することが示され、市街地再開発事業の実施も検討されていた。

