行長が自力で脱出できたからよかったものの、義統は窮地の味方を見捨てた格好となった。報告を受けた秀吉は激怒し、大友家は即刻改易とされている。
義統が逃げたのは「行長が戦死した」という誤報が入り、それを信じたためとも言われるが、真相は定かではない。源頼朝以来の由緒ある名門が、ここに滅亡することとなった。
自ら死んで城兵を救った立派な城主もいた
城を捨てた城主がいる一方で、播磨・三木城(現・兵庫県三木市)の別所長治は正反対の選択をしている。
天正6(1578)年、長治は羽柴秀吉に反旗を翻して三木城に籠城した。秀吉はこれに対し、徹底した兵糧攻めで応じた。「三木の干殺し」と呼ばれる苛烈な包囲戦である。2年近くにわたって食糧を断たれた城内は、糠や馬草を食べ、牛馬や犬まで食べ尽くした末に、餓死者が続出する地獄絵図と化したという。
それでも長治は逃げなかったようだ。『信長公記』には、次のように記されている。
「三人とも腹を切るので、城兵の命は助けてくれますようにと小森を使者にねんごろに懇願してきた」
<両三人腹を可切候間其外諸卒被相助候様>
長治は弟・友之、叔父・吉親とともに切腹することを条件に、城兵の助命を秀吉に嘆願したのである。天正8(1580)年正月17日、長治は23歳で腹を切った。辞世の句はこう伝わる。
「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に替わる わが身と思えば」
今となっては、もはや恨みの気持ちもない。多くの人々の命と引き換えに散るわが身だと思えば――。
その後について「城中の者たちは助け出された」<城中之者共助被出>と『信長公記』は淡々と記すが、簡単な決断ではなかっただろう。長治の選択は、伊東義祐とも大友義統とも、そして荒木村重とも、まったく異なるものだった。

