一方、村重は尼崎城や花熊城で徹底抗戦を続けるも、ともに落城。村重は毛利氏のもとに亡命し、尾道に逃れたという。
「卑怯者」とも評される村重だが、城主が城を捨てて逃げること自体は、村重だけの話ではなかった。
城を捨てて逃げた城主たち
天正5(1577)年12月、日向国(現・宮崎県)の佐土原城から城主が去った。
伊東義祐は、最盛期には「伊東四十八城」と称されるほどの城を日向一円に擁した大大名である。しかし島津氏との抗争に敗れ、多くの家臣が次々と島津方に寝返るなか、ついに島津軍が佐土原城に迫った。
「もはや籠城もかなわず」と判断したのだろう。義祐は一族を引き連れて豊後(現・大分県)の大友宗麟を頼って落ち延びた。のちに「伊東崩れ」と呼ばれる逃亡劇である。
48もの城を持ちながら守るべき城がひとつもなくなった伊東義祐。なかなかの転落ぶりだが、一族を引き連れて逃げている点で村重とは異なる。
また、後に義祐の三男にあたる伊東祐兵は豊臣秀吉に従って九州征伐の先導を務め、飫肥城に復帰している。あくまでも「一時撤退」だったとも言える。
同じ城主が、2度にわたって城と味方を見捨てた例もある。豊後(現・大分県)を拠点に九州北部を支配した大友宗麟の息子、大友義統(よしむね)だ。
1度目は天正14(1586)年、島津氏の豊後侵攻の場面だ。家臣の高橋紹運が岩屋城でわずか700の兵をもって数万の島津軍と死闘を繰り広げて玉砕するなか、義統は大友家の居城・府内から撤退し高崎山城へ。さらに龍王城へと逃げ続けた。家臣たちの奮戦を横目に、城主みずからが城を捨てたのである。
その後、豊臣秀吉の九州征伐によって島津氏が退いたため、大友家は存続した。しかし義統の「逃げ癖」は、これで終わらなかった。
2度目は文禄2(1593)年の朝鮮出兵である。義統は朝鮮半島の鳳山城に駐屯していたが、明の大軍に包囲された小西行長から救援要請が届くも、それを黙殺。城を放棄して撤退してしまった。

