ここで確認すべきは、村上春樹が1968年のパリを起点とする未完の「68年革命」という、世界的な激動から首尾よく帰還したロスト・ジェネレーション(戦後日本の「失われた世代」)であったことだ。
それが誰の目にも明らかになるのは、最初の長編小説『羊をめぐる冒険』においてである。
その後の彼が、日本的な土俗性を可能な限り削ぎ落とした、「都市」をめぐる「喪失」(あるいは「冒険」の失敗を経ての再喪失)の物語を延々と書き継いできたことは否定すべくもない。
「主体」の自明性に対して、否定的に作用する「都市」の自律性が、村上春樹的主人公たちに与えられた脱私小説的な自由度であり、それこそが村上春樹の作品世界の脱日本的な無国籍性(インターナショナルではなく、あくまでコスモポリタンな)を保証するものに他ならなかった。
それによって彼は、世代的特権として、西部邁らに特有な、60年代安保世代の「転向」による「疚(やま)しい良心」とは無縁な、世俗的な物語のトポスを獲得したのであった。
浦和や武蔵境といった都市の周縁地
ところで今度の作品では、浦和や武蔵境といった都市の周縁地が、焦点化される。
それらは、あらかじめ「ありくい」や「シロアリ」たちが、夏帆の生きる「現実」にアクセスするために必要な、恰好の周縁的「境界」地であった。
「都市」という中心から一定の隔たりを保持し、夏帆という希薄な
「現実」を揺るがす「非現実」ではなく、「夢」のようで夢そのものではない、もう一つの「違う現実」(=「異界」)からの使者たちが、不気味な「異類」としてそこを根城に、陰に陽に夏帆にコミットしてくる。村上春樹ファンには、お馴染みの物語的パターンである。
この異界からの使者に逆にコミットできるのは、村上春樹的世界にあって、ヒーローないしはヒロインの条件を満たす選ばれた「異能者」でなければならない。
そして夢ではない、ゼリー状の粘膜に包まれたような「現実の隙間」と、「現実」そのものとの間には、両者の境界をなす「通路」が必要となる。

