絵本作家でもある主人公が、その厄介な関係をなぞるかのように自身の作品で主題化するのが、「捨て子物語」とも言うべきファミリー・ロマンス(家族物語)である。
「白雪姫」や「シンデレラ」に見られるように、世界的に反復され、日本でも「継子いじめ」の物語として古来、幾度となく変奏されてきたものだ。
なぜそこに、多くの子どもたちが引き寄せられるのか?
それは子どもたちの深層に埋め込まれた、「自分は今ある両親ではなく、別の親の子どもかもしれない」という、根源的な危機意識と深くかかわっている。
古今東西の昔話や童話は、親に疎まれ、「捨て子」同然となった無力な子どもが、実は尊い「貴種」であったという種明かしで、多感な子どもたちを襲う深刻な「危機」(=裏返しの願望)を、物語的に昇華してきた。
そこまではだが、凡庸な「アイデンティティ」の危機にすぎない。村上春樹の新作の「可能性の中心」は、それを超えた小さな「家族物語」の反・人間中心主義的な解決の回路にある。
ロスジェネ作家の影響
遡って村上春樹が、第一次世界大戦に従軍し、決定的なアイデンティティの危機に見舞われたアメリカのロスト・ジェネレーションの作家たちの影響下に出発したことは、周知の事実だろう。
具体的には、自ら翻訳も手がけたフィッツジェラルドやチャンドラーといった作家たちだ。かつて評論家・川本三郎との対談で彼は、それを踏まえ、こう語っていた。
そこで、登場人物たちが「主体的」に選んだわけではない「都市」が、従来の「主体」の行方に先行する主題として、物語的に浮上してくるわけだ。

