ウォレス氏が著書の中で繰り返し述べているのは、「子ども自身が悪いわけでも、親が悪いわけでもなく、社会全体が"いくらやっても足りない"というメッセージを発し続けている」ということです。テストの点が上がれば「次は順位を上げよう」、順位が上がれば「次はもっと上の学校を狙おう」、学校に入れば「次は学内で1番を取ろう」――終わりのないアップグレード要求が、子どもの心を静かに削っていきます。
「次のレース」が永遠に続くトンネル
Mさんが東大に入って直面したのも、まさにこの「終わりのないアップグレード要求」でした。
東大という場所は、Mさんと同じく「ずっと1番だった人」が全国から集まってくる場所です。中学・高校で常にトップだった人たちが一堂に会するわけですから、その全員が同時に1位を取り続けることは不可能です。Mさんもまた、東大の学内試験で、生まれて初めて「1番ではない自分」と向き合うことになりました。
ここで注目したいのは、Mさんを最も追い詰めたのが、「1番を取れなかった」という事実そのものよりも、「いつまで頑張ればいいのかが、わからなくなった」という時間的な迷子状態だった、という点です。
これまでのMさんにとって、「頑張る期間」には常に終わりがありました。次の定期テストまで、次の模試まで、入試本番まで――。終わりが見えているからこそ、人は全力で走ることができます。しかし東大に入ってからの「頑張り」には、明確な終着駅がありません。学内試験で1番を取れば終わりなのか、卒業すれば終わりなのか、就職して年収が上がれば終わりなのか――どこをゴールに設定しても、その先にまた次のレースが待っていることが、Mさんには見えてしまったのです。
ウォレス氏は『Never Enough』の中で、この状態への一つの処方箋として「mattering(マタリング、=自分は他者にとって意味のある存在だ、と感じられること)」という概念を提示しています。成果の量ではなく、「自分という存在そのものが、誰かにとって価値ある存在として認められている」と感じられることが、達成文化の有害な側面を中和する鍵になる、という主張です。
逆に言えば、Mさんのように「1番という成果を出している自分」だけが愛される、と感じてきた人ほど、その成果が出せなくなった瞬間に、自分の存在価値そのものが揺らいでしまうということでもあります。
Mさん自身は、いまもトンネルの中で立ち止まっています。けれどMさんがこの先、「1番」というアクセル以外の運転方法を身につけられるかどうか――それは、Mさん一人の問題でも、東大という大学一つの問題でもなく、達成文化の中で育ってきたすべての元・優等生に共通する問いなのかもしれません。


