そして『武功夜話』(尾張国の土豪・前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜の一種。偽書説もあり)にも半兵衛は痩せていて病弱であったとあります。軍陣に臨むのもつらそうですが、それでも半兵衛が戦場に出ると兵士らは「戦わずして、既に勝ちたり」と勇み立ったとされます(常山紀談)。
また半兵衛が先陣や軍勢の最後尾にいる時は、兵士が安心していたとの逸話も残っています(太閤記)。
もちろん、これらの逸話は2次史料に記述されていることであり、本当にあったことか否かは判然としません。後世の創作の可能性が高いでしょう。「半兵衛伝説」の1つと言っていいでしょうが、半兵衛の「実像」の片鱗を示したものとの想いも筆者にはあります。
半兵衛が秀吉に仕えるのは浅井攻め以降
さて半兵衛は織田信長による美濃斎藤氏攻めの頃から秀吉と知り合い、秀吉の家臣になったとドラマや小説で描かれることがよくあります(信長によって斎藤氏の居城・稲葉山城が陥落したのは1567年のことです)。今回の「豊臣兄弟!」もそうでした。
しかしそれに反する記述が半兵衛の嫡子・竹中重門が著した『豊鑑』にあります。それによると、元亀元年(1570)の夏、信長が北近江の浅井長政らを攻めた時、秀吉は先駆けを望みますが、その際、信長に「美濃国人竹中氏、牧村氏、丸毛氏の3人を与力として加えたい」と請うて許されたとあるのです。
ここから半兵衛は元亀元年(1570)の頃には信長の直臣だったことが分かります。半兵衛が秀吉に仕えるのはこれ以降ということになります。
幕末の館林藩士・岡谷繁実が約15年もの歳月をかけて完成させた人物列伝に『名将言行録』がありますが、そこでは半兵衛を合戦での武功はなかったものの、秀吉を助けて軍務に参画したと評しています。よって秀吉は半兵衛を信頼し、事あるごとに半兵衛に意見を聞いたとも記されているのです。
天正7年(1579)、秀吉は播磨国の三木城(城主は別所長治)の攻略を目指しますが、この時もその傍らには半兵衛の姿がありました。
半兵衛の嫡子・竹中重門の著作『豊鑑』にも秀吉は半兵衛を「頼もしき人」と思っていたと書かれています。ところがその半兵衛は重い病となってしまうのでした。
