そして信者は、最終的にはその神と直接、一対一で向き合う。家族や共同体を介さず、自分自身の魂が単独で神の前に立つ。これが、欧州の個人主義の基盤となった一神教の基本的な構造だ。これがいかに欧州の社会や歴史と強い結びつきがあるのか。
一橋大学学長も務め、ドイツ中世史を専門とした阿部謹也は、『「教養」とは何か』(講談社)でこう論じている。
〈近代的個人が西欧において生まれたのは絶対的な神の前で自己をアイデンティファイする過程においてであった。(中略)教会が作り上げた近代的個人を前提として近代国家が生まれたのである〉
キリスト教においては、神は人の前に姿を表さない。それでいて絶対的な存在だ。この神の前で、祈りなどを通じて自己をアイデンティファイする過程を経た「近代的(欧州的)個人」。これは、日本の伝統的な「唯一神がいない個人」とは大きな意味の違いがある。
前出の阿部は、代表作『「世間」とは何か』(講談社)でこんな内容を記している。
〈日本の個人は、世間向きの顔や発言と自分の内面の想いを区別してふるまい、そのような関係の中で個人の外面と内面の双方が形成されているのである。いわば個人は、世間との関係の中で生まれているのである。
世間は人間関係の世界である限りでかなり曖昧なものであり、その曖昧なものとの関係の中で自己を形成せざるをえない日本の個人は、欧米人からみると、曖昧な存在としてみえるのである。ここに絶対的な神との関係の中で自己を形成することからはじまったヨーロッパの個人との違いがある〉
欧州組が現地で接する絶対的な文化ギャップ
日本の個人は世間との関係で生まれる。だから欧米の人々からみると、「ふわっとした(曖昧な)存在」に見える。ヨーロッパの個人は神との厳格な関係から生まれる。神という絶対的な存在の前に一人で立ち、「自分とは何者か」を証明する。この対比こそが、筆者の論の出発点だ。
評論家の山本七平もまた、日本とキリスト教文化圏の考え方の違いについて『日本人と組織』(角川書店)で、「契約」というキーワードを用いて論じている。
〈(キリスト教とは)神と人との契約を宗教と呼ぶ宗教、すなわち『契約宗教』である。実はこれが、われわれの世界にはなかったもの、したがって何とも理解しにくいもので、この考え方が前面に出てくると、われわれは、一種の違和感を感じ拒否反応を起こさざるを得ない。……日本には、人が絶対者と契約を結ぶという前提がない〉
阿部、山本らが言及する考え方の違いが、欧州組の日本人プレーヤーたちが現地で接する、とんでもない文化ギャップの根っこにあるように思う。個人が持つ尊厳、という考え方も違ってくるのだ。
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