その隣国オーストリアは、対照的な道をたどってきました。
戦後長らく、オーストリアは自らを「ヒトラーの最初の犠牲者」と位置づける、いわゆる被害者神話を保持してきました。1938年のナチス・ドイツによる「併合(アンシュルス)」を、自国は望まぬまま強いられた、という語り方です。
この神話を大きく揺さぶったのが、1986年のヴァルトハイム事件でした。当時の大統領候補クルト・ヴァルトハイムが、ナチス親衛隊(SA)出身であったことが国際的に問題視され、オーストリア国内でも「自国はそもそも加害者ではなかったのか」という問い直しが始まります。
1980年代以降、1980年代以降、オーストリアは少しずつ、ナチス協力への加担を直視し、加害責任を認識する方向へと舵を切ってきました(DW "Austria faces up to Nazi past")。
次に、韓国の教科書は、日本による植民地支配の被害を強調し、慰安婦問題や強制労働を詳述することで知られています。植民地下に何が起き、人々がどう尊厳を傷つけられたか。その描写には、強い具体性が伴います。
一方で、ベトナム戦争における韓国軍兵士による民間人加害については、教科書の中ではほとんど触れられていない、という指摘もあります(Asia-Pacific Journal "People's Tribunal on War Crimes by South Korean Troops during the Vietnam War")。
近年、韓国国内でも市民社会を中心に、ベトナムでの民間人被害をめぐる検証や謝罪を求める動きが続いていますが、教科書記述として広く反映されるまでには、なお時間がかかっています。
教科書は、「自分たちは何者か」を問う鏡である
いかがでしょうか?歴史の教科書は、「過去の事実を淡々と並べただけの絶対的な書物」ではありません。
教科書の一行一行は、無数の選択の積み重ねです。何から始めるか。何を強調するか。何に紙幅を割き、何を行間に追いやるか。そのすべての判断の総体が、「私たちは何者か」という問いに対する、国家からの一つの答えとして立ち上がってきます。
複数の国の教科書を読み比べると、自国の教科書に書かれていることの意味だけでなく、「書かれていないこと」の意味もまた、輪郭をもって浮かび上がってきます。
歴史を学ぶとは、単に過去を知ることではありません。いま私たちが、どのようなフィルターを通して世界を見ているのか――それを自覚していく、長く、静かな自己探求の営みなのだと思います。

