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キャリア・教育 #秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像

「かつて柴田勝家から"柴"の字をもらい羽柴と名乗った」信長を激怒させた秀吉の職場放棄 背景に《柴田勝家とケンカ》説

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大垣城
かつて柴田勝家から「柴」の字をもらった羽柴秀吉。しかし2人の関係性は変わります(大垣城の写真:オフィスK / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)

INDEX

この相手とはいつか必ず戦うことになるだろう――。戦国の世を生き抜くにあたっては、そう予感させる人物がたびたび現れる。豊臣秀吉とその弟・秀長の兄弟にとっては、柴田勝家がまさにそうだった。

「本能寺の変」によって信長がこの世を去ると、織田家の主導権を巡って、秀吉と勝家は対立。天正11(1583)年4月、近江国伊香郡の賤ヶ岳付近で両者は激突し「賤ヶ岳の戦い」で決着をつけることになる。

だが、実はその数年前から、秀吉と勝家の仲は微妙なものだった。勝家への怒りに駆られた秀吉が、戦場をボイコットする騒ぎを起こしている。

信長の弟・信勝を見限った柴田勝家

柴田勝家は大永2(1522)年頃、尾張国に生まれた。織田信長の父・信秀に仕えたのち、信長の弟・信勝の家老となっている。

弘治2(1556)年、信長が清洲を奪い約2年が経つと、勝家は信長の宿老・林秀貞とその弟・美作守を味方につけて、兄の信長を引きずりおろして、弟の信勝を擁立しようと計画する。勝家が林兄弟とともに、信長の直轄領である篠木三郷を奪って砦を築くと、清州から討って出た信長と対決することとなった。

勝家はこの「稲生の戦い」で敗北。その後は、信長に詫びを入れて赦免されている。再び弟の信勝が立ち上がったときには、いち早く信長に密告。信勝を見限って、信長側についたことで、勝家はクーデターを未然に防ぐこととなった。

以後は信長の重臣として、数々の戦場で武功を重ねた勝家。猛烈な勢いで敵軍にかかっていくことから「掛かれ柴田」と称されるほど勇猛果敢さを見せて、「鬼柴田」の異名も持った。

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【若き秀吉が「職場放棄」に至ったワケ】

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