「許可も得ずに陣を解いて、引き揚げてしまった。信長は、けしからぬことと激怒した。秀吉は進退に窮した」(羽柴筑前御届をも不申上帰陣仕候段曲事之由被成御逆鱗迷惑申され候)
もっとも、『信長公記』にはこれ以上の記述なく、戦の詳細は不明である。また、上杉方の史料では秀吉の善戦が伝えられているなど、手取川合戦は実態がまだよくわかっていない。
いずれにしても、信長の下で、ともに戦った者同士である秀吉と勝家が敵対するのは、両者ともに複雑な気持ちだったことだろう。
「賤ヶ岳の戦い」で冷静さを見せた秀長
手取川合戦から6年の月日が流れた天正11(1583)年、秀吉と勝家はついに、決着をつけることとなる。この「賤ヶ岳の戦い」において、存在感を発揮したのが、豊臣秀長である。
このとき秀吉は織田信孝を討つために、美濃の大垣城へと向かうところだった。秀長は秀吉に援軍を頼みながら、近江と越前の国境付近に築いた砦で勝家軍と対峙した。
敵方は「鬼玄蕃」の異名を持つ、勇猛な佐久間盛政を先鋒として、大岩山砦にいる秀吉方の中川清秀を急襲。慌てて駆けつけてもよさそうなものだが、秀長はあくまで動かなかった。
この判断が後に秀吉から「味方を見殺しにした」と責められることになるが、秀長からすれば、佐久間勢を引きつけておくという狙いがあった。その結果、駆けつけた秀吉軍が賤ヶ岳付近で佐久間勢を撃破。勝家を追い詰めることになる。
「動」の秀吉と「静」の秀長――。タイプの違う兄弟だけに敵に回すと、なかなかやっかいそうだ。この2人を敵に回した時点で、勝家の運命は決まっていたのかもしれない。
【参考文献】
太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
谷口克広『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』(中公新書)
杉山博編『多聞院日記索引』(角川書店)
宮島敬一著『浅井氏三代』(吉川弘文館)
河合敦著『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)
金松誠著『松永久秀 シリーズ・実像に迫る』(戎光祥出版)
竹内理三編『史料大成多聞院日記〈全5巻〉』(臨川書店)
河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)
真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)

