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キャリア・教育 #秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像

「かつて柴田勝家から"柴"の字をもらい羽柴と名乗った」信長を激怒させた秀吉の職場放棄 背景に《柴田勝家とケンカ》説

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大垣城
かつて柴田勝家から「柴」の字をもらった羽柴秀吉。しかし2人の関係性は変わります(大垣城の写真:オフィスK / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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天正4(1576)年に北陸方面の司令官に任じられると、越前・北庄(現在の福井市)を拠点に加賀・能登・越中を次々と平定していく。いかにも武勇に優れた勝家らしいが、その一方で、農民の保護や街道整備にも尽力するなど、意外な内政手腕も発揮している。

戦場で意見が分かれた勝家と秀吉

そんな中、天正4(1576)年に、上杉謙信が能登国を支配すべく七尾城に侵攻。だが、「天下の堅城」とも呼ばれる七尾城だけにたやすく落とすことはできず、能登で年を越している。

当主に代わり七尾城を守るべく籠城していた長続連は、信長に救援を求めた。謙信が勢力を拡大することは信長としても避けたい。天正5(1577)年、信長は北国に軍勢を派遣する。そのときに大将に据えられたのが、柴田勝家である。

『信長公記』に「柴田勝家を総大将として、北国へ軍勢を出陣させた(八月八日 柴田修理亮 大将として北国へ御人数被出候)」とあり、次のメンバーが加賀へ進撃することとなった。

「滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・斎藤新五・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・不破光治・前田利家・佐々成政・原政茂・金森長近、および若狭衆ら」

やがて勝家が率いる織田軍は加賀国・手取川周辺で、上杉謙信軍と激突することになる。だが、このときに作戦を巡って、勝家と秀吉の意見が対立する。

勝家からよほどのことを言われたのだろうか。秀吉は戦を放棄し、兵を引き揚げてしまったという。当時の軍師・竹中半兵衛や秀長と相談したうえでの判断だったのだろうか。

かつては、柴田勝家から「柴」の字をもらい「羽柴」と名乗った秀吉だったが、この頃には、2人の関係性はすでに変わっていたようだ。

「新参者で見くびられているのではないか」という思いが、秀吉のみならず、秀吉の家臣たちにもあったという。勝家が戦において、秀吉軍を何かと後詰めにしたことが、不満のもととなったともいわれている。

『長家家譜』によれば「七尾城への援軍として織田勢4万が出陣したが、落城の報に接し、秀吉は戦わずして帰陣した」と記述されている。のちにナンバー2として、高い調整力を発揮する秀長も、このときはまだ秀吉をなだめることができなかったらしい。

戦線離脱した秀吉に、織田信長は激怒したという。『信長公記』では、次のように書かれている。

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【秀吉の勝手な行動に激怒した信長】

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