天正4(1576)年に北陸方面の司令官に任じられると、越前・北庄(現在の福井市)を拠点に加賀・能登・越中を次々と平定していく。いかにも武勇に優れた勝家らしいが、その一方で、農民の保護や街道整備にも尽力するなど、意外な内政手腕も発揮している。
戦場で意見が分かれた勝家と秀吉
そんな中、天正4(1576)年に、上杉謙信が能登国を支配すべく七尾城に侵攻。だが、「天下の堅城」とも呼ばれる七尾城だけにたやすく落とすことはできず、能登で年を越している。
当主に代わり七尾城を守るべく籠城していた長続連は、信長に救援を求めた。謙信が勢力を拡大することは信長としても避けたい。天正5(1577)年、信長は北国に軍勢を派遣する。そのときに大将に据えられたのが、柴田勝家である。
『信長公記』に「柴田勝家を総大将として、北国へ軍勢を出陣させた(八月八日 柴田修理亮 大将として北国へ御人数被出候)」とあり、次のメンバーが加賀へ進撃することとなった。
「滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・斎藤新五・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・不破光治・前田利家・佐々成政・原政茂・金森長近、および若狭衆ら」
やがて勝家が率いる織田軍は加賀国・手取川周辺で、上杉謙信軍と激突することになる。だが、このときに作戦を巡って、勝家と秀吉の意見が対立する。
勝家からよほどのことを言われたのだろうか。秀吉は戦を放棄し、兵を引き揚げてしまったという。当時の軍師・竹中半兵衛や秀長と相談したうえでの判断だったのだろうか。
かつては、柴田勝家から「柴」の字をもらい「羽柴」と名乗った秀吉だったが、この頃には、2人の関係性はすでに変わっていたようだ。
「新参者で見くびられているのではないか」という思いが、秀吉のみならず、秀吉の家臣たちにもあったという。勝家が戦において、秀吉軍を何かと後詰めにしたことが、不満のもととなったともいわれている。
『長家家譜』によれば「七尾城への援軍として織田勢4万が出陣したが、落城の報に接し、秀吉は戦わずして帰陣した」と記述されている。のちにナンバー2として、高い調整力を発揮する秀長も、このときはまだ秀吉をなだめることができなかったらしい。
戦線離脱した秀吉に、織田信長は激怒したという。『信長公記』では、次のように書かれている。
次ページが続きます:
【秀吉の勝手な行動に激怒した信長】
