最も当てが外れたのは、途中駅の大将軍駅である。市と住宅公団が共同で新築した高尾アパートという10階建てのビルの3、4階を駅として利用し、1、2階を店舗、5~
だが、運賃が高額なのと姫路駅までの距離が近いのとでほとんど利用されず、1967年12月の同駅利用者は1日平均7人、乗客ゼロの日が7日間もあったという(神戸新聞1968年1月28日)。そのため1968年2月から駅業務を休止し、通過駅となった。
さらに追い打ちをかけたのが、モノレールの規格統一の動きだった。当時、さまざまなメーカーの仕様が乱立気味であったことから、これを統一し、より実用性の高いものにして普及を図ろうとしたのである。
日本モノレール協会による研究の結果、跨座型については、アルヴェーグ式の改良型である日本跨座式(床面を高くし、客室内の床をフラットにした)が都市モノレールの標準仕様として採択された。騒音の大きな鉄車輪のロッキード式は、都市交通に相応しくないとして淘汰されたのだ。
時代を先取りしすぎたか
こうして販路を断たれた日本ロッキードモノレール社は、モノレール事業から撤退。「設計図を引き継いだ川崎重工も簡単には部品をつくれない」(神戸新聞1974年10月21日)ことから部品交換が困難になり、安全面も不安視されるようになった。
そして、1974年4月、姫路モノレールは運行を休止し、1979年1月に正式に廃止された。皮肉にも1972年には、モノレールを都市計画道路上に建設し、建設費の一部を道路会計から国庫補助する都市モノレール法が施行され、モノレール普及に向けた下地が整った。
姫路モノレールは事業としては失敗だったが、多くの市民に夢を与えた――そのように締めくくりたいところだが、当時の新聞からは、残念ながらそうした雰囲気は読み取れない。石見元秀という地方政治における傑物が、時代を先取りしすぎて招いた不運としか言いようがないのである。もし、導入があと10年遅ければ、姫路の上空を今もモノレールが走っていたかもしれない。
