いよいよ戦かという緊迫した情勢ですが、信長の陣には、大坂・堺・尼崎・西宮・兵庫辺りから、挨拶に来る者が続出したとのこと。そうした人々は、異国や日本の珍奇な物品を持参し、信長に挨拶したのです。
また、陣取りを見物しようと、人々が群集したと言いますから、ある意味、長閑なものと言えましょう。
さて、野田・福島に立て籠っている三好三人衆方は約8000人。それは、細川六郎・三好日向守・三好山城守・斎藤龍興(美濃の戦国大名であったが、信長に追われた)といった武将たちでした。
ところが敵方も一枚岩ではなく、三好為三・香西越後守は調略により、既に信長方となっていました。信長方は、敵を内部から突き崩す作戦をかけたわけですが、敵方の人中の警戒は厳しかったようで、その作戦が成功するかは微妙なところだったようです。
だが、三好為三と香西氏は、8月28日夜には、天王寺の信長の陣に参上することができたのでした。
その後、信長は砦の構築を命じ、そこに武将を入れたり、9月9日には天王寺から天満が森に陣を移したりしています。
「大鉄砲」の登場
翌日、信長は諸方より埋め草(堀などを埋めるための草)を集めさせ、敵方の城の近辺にある江堀を埋めてしまったようです。
大坂には、将軍・義昭も入っていましたが(9月3日)、9月12日、義昭と信長は海老江(大阪市福島区)に共に陣を構えます。
そして野田・福島の要害に籠る敵方に攻撃を仕掛けたのです。夜に土手を築き、要害の塀際に詰め寄り、多くの櫓を建てます。その後「大鉄砲」(『信長公記』)にて城中に攻撃を仕掛けたのでした。これが『信長公記』における「大鉄砲」の初見です。
この大鉄砲とは、鉄砲を大きくしたものだったと考えられています。しかし火縄銃とは別物であり、塀や櫓を打ち崩すほどの威力を持っていたのです(伊勢長島の一向一揆攻めの時にも織田軍は大鉄砲を使用しています)。
敵・味方の鉄砲が日夜、天地に響き渡るほどの凄まじい銃撃戦が展開されますが、信長方が優勢となります。
根来・雑賀など紀伊国の軍勢2万も信長方に加勢していたのですが、それらの軍勢は3000挺もの鉄砲を有していたとのこと。凄まじい銃撃により弱体化した三好三人衆方は、和睦を願い出るまでになります。
ところが、信長は和睦を拒否。兵糧攻めにするべきだとして、和睦を許容しませんでした。
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【石山本願寺が参戦】
