そのうえ、集団主義者は他者に後れを取ったときには、それに気づきやすい。なぜなら彼らは、他の誰もが自分の務めを果たしているかどうか確認するために、多大な注意を払っているからだ。
そしてそれが、個人主義者のほうが集団主義者よりも幸せである最後の理由につながる。批判だ。
もし私が、あなたの働きぶりが不十分であることに気づいたとき、それについて何もしなければ、あなたのしている仕事に注意を払って他者の仕事と比べても、何の意味もない。
私がたっぷり注意を払っているのは、私が生き延びられるように、あなたにきちんと自分の務めを果たさせるためだ。
その結果、あなたの働きぶりが不十分なのがわかったときには、私には、介入してそれをあなたに説明する義務がある。
集団主義者は他者からの批判を気にする
あなたは自分の灌漑用水路にうまく水が流れなくなった理由を知りたいかもしれないし、知りたくないかもしれないが、私はその問題について意見があれば、それをあなたに伝えると思って間違いない。
そのうえ、私たちの文化規範のせいで、あなたは私の話に最後まで耳を傾けなければならないだけでなく、自分の仕事ぶりを改めるために最善を尽くさざるをえない。
一方、もし私が小麦を栽培する農民で、あなたがのこのことやって来て、私のやり方は人並み以下だと思う理由を語ったら、それに耳を傾けるか、無視するかは、私の勝手だ。
私はあなたに何の義理もないし、私の今年の収穫高が多かろうと少なかろうと、コミュニティの誰一人気にしない。
この違いの結果、稲作農民やその他の集団主義者は、小麦栽培をする農民やその他の個人主義者よりも自己批判的になることを学ぶ。
集団主義者は個人主義者よりも、失敗と、それがその後に他者から招く批判を避けるように、強く動機づけられているからだ。
自分の不首尾は、他者に見つかる前に自分で見つけるにこしたことはない。他者に見つかるのがわかっているときには、なおさらだ。

