また、彼女が寸暇を惜しんで練習しているのを見て喜ぶ人もいなければ、彼女がどの角度からでもどんな距離からでもシュートを決めるところを見て胸を躍らせる人もいない。
それとは対照的に、もしクリステンが学校のチーム(仮に「ホークアイズ」と呼ぶことにする)の一員で、つながりのためにプレイしていたら、他者に対する責任を負うことになる。
練習を怠るのは、チームメイトに対するあからさまな侮辱であり、それは彼女たちがクリステンに期待を裏切られることはないと信じているからだ。
もし彼女がシュートを外したり、ブロックをしそこねたりしたら、チーム全体の痛手となるが、見事なシュートやブロックを決めたら、誰もが恩恵を受ける。
ホークアイズの全員が、自分とつながっているクリステンの活躍を当てにしている。大切な試合ではなおさらだ。だが、自主的にやっているだけのクリステンの活動は、誰も特段気に懸けない。
メンバー全員の努力が不可欠
これはまさに、人が集団主義の文化と個人主義の文化のメンバーであるときに直面する状況だ。
集団主義は、人が生き延びようとするなら協力が求められる環境への心理的反応であることを思い出してほしい。狩猟採集民でも、稲作農民でもこれが見られた。狩猟採集民や稲作農民は、集団(チーム)のメンバーであり、集団はじつに重要だ。
もし私が狩猟採集民として生き延びたければ、あなたが狩りに出てときどき成功することを当てにする。私が獲物なしで帰ってきたときに、あなたに肉を分けてもらえるからだ。
そして、もし私が稲作農民として生き延びたければ、私の灌漑用水路につながっているあなたの灌漑用水路を、あなたがしっかり維持し、収穫までの重要な節目ごとに緊密に協働してくれることを当てにするだろう。
というわけで、私はあなたの働きぶりをおおいに気にする。私に大きな影響があるからだ。それに対して、もし私が小麦を栽培する農民だったら、あなたが自分の畑をどう灌漑しようと私にはほとんど関係ないし、収穫にあなたの助けを必要とすることもない。
自分でこなせないほど多くの労働を必要とする時期はないからだ。

