もちろん、それらの指摘はいずれも間違っていない。初期の密室芸には、言語や教養、権威を相対化する批評性があった。司会者としてのタモリには、場を支配しながらも過剰に前に出ない独特のバランス感覚があった。「タモリ倶楽部」などのサブカル志向の番組に出ているときのタモリには、対象を面白がる視線そのものをコンテンツ化する力があった。
しかし、私はタモリの面白さを必死で説明しようとする人々に対して、何とも言えない違和感を覚えた。そもそも、タモリの面白さを声高に語ろうとする行為そのものが「タモリ的」ではないのではないかと感じたからだ。
一般的な笑いの方法論から距離を取る
タモリの笑いは「説明」と相性が悪い。わかりやすく盛り上げる、明快なオチを提示する、観客に笑いどころを示す、強い言葉で場を動かすといった一般的な笑いの方法論から、タモリは常に距離を取ってきた。
もちろん、タモリが高度な話芸や司会技術を持っていることは間違いない。だが、その技術は目に見えやすい形ではなく、空気の調整、間の取り方、視線のずらし方、熱量の制御といった微細な部分に現れる。
たとえば、「笑っていいとも!」のタモリは、生放送の活気のある番組の中心にいながら、番組を過剰に自分の色で染めようとはしなかった。ゲスト、レギュラー陣、観客の空気を受け止めながら、番組全体の温度をさりげなく調整していた。強烈な自己主張によって場を引っ張るのではなく、場の中に微妙な違和感や脱力感を差し込むことで、独自の笑いを生み出していたのである。
この点で、タモリは「爆笑を取る芸人」というよりも、「笑いの場を整える芸人」だと言える。相手の発言を真正面から受け止めるのではなく、少しだけ角度を変えて返す。世間的には価値があるとされているものを、必要以上にありがたがらない。逆に、多くの人が見過ごしているものに、妙な執着を見せる。その態度そのものがタモリの笑いを形作ってきた。
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【赤塚不二夫氏の葬儀での一場面】
