人間もそうだと思われるかもしれませんが、我々は自らの足で歩き、手で触れることで「まだデータとして入力されていない一次情報」を探しに行くことができます。私たちは、世界の探究を通して、自律的に情報を入力しに行けるのです。
私の好きなマンガに『ジャンケットバンク』(作:田中一行 集英社)があります。この作品は、様子のおかしい頭脳明晰なイケメンたちが、互いを罵り合いながら命懸けの心理戦に身を投じるのですが、「天堂弓彦」というキャラクターの一言が、非常に示唆に富んでいると感じるのです。
神父である彼は、自らの信仰の中で「人間は頭の中から出られない」ことを一つの結論として持ち合わせます。だからこそ、観測したものではなく、自らの頭の中だけを唯一絶対のものとして信じている。これは「我思う、故に我在り」に通じる哲学だと言えるでしょう。
もちろん、彼の思想はあまりにも過激であることを差し引いても、確かに、我々の意識や認識とは、結局のところ「臓器である脳みその表面を駆け巡る電気信号」に過ぎません。そして、外界の情報を受け取るにあたっては、入力すべき情報を目や耳など感覚器官を通して得なければ、私たちは「水槽に浮かぶ脳」とさして変わらない立場でしかない。
人間とAIを分ける決定的なポイント
しかし、逆に言えば、我々は「水槽に浮かぶ脳」とは一線を画する存在であるともいえます。なぜなら、「指令を出せば、常に自分の思い通りに動く外界探査用のデバイス(肉体)と、有機的に接合している」のですから。これこそが、人間とAIを分ける決定的なポイントなのです。
そして、人間は「見たいものを見て、見たくないものを見ない」自由があります。AIのように、「与えられたデータセットを受動的に処理するだけ」ではない。自分自身の興味や欲望、あるいは直感に従って、自ら「学習したい内容」を選び、それが得られそうな環境に肉体を送り込み、学びを深められます。
もちろん、恣意的な学習は、フィルターバブルやエコーチェンバーに陥るリスクがあります。心地よい情報ばかりを選び取っていれば、陰謀論に代表される深淵へと引き込まれてしまうでしょう。
次ページが続きます:
【人間らしさは「独自の方向性をもつこと」にある】
